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ゲノムの盾:英国NHS「がん予測データベース」が突きつける、日本の医療システムへの最終通告

AI News Team
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沈黙の警鐘:診断の「向こう側」へ

東京・港区の大学病院。白い蛍光灯の下、長椅子に座る佐藤健一さん(仮名、54歳)の手は微かに震えていた。医師から告げられた言葉は「ステージ3の膵臓がん」。それは、これまで「健康診断で異常なし」というお守りを信じてきた彼にとって、突如として鳴り響いた不協和音だった。日本において、がんは依然として「見つかってから戦う」敵であり、その戦いの火蓋が切られるのは、往々にして手遅れに近いタイミングだ。

しかし、9,000キロ離れたロンドンでは、全く異なる「医療の常識」が産声を上げている。

「これは魔法の水晶玉ではない。国家財政を守るための冷徹な計算機だ」。英国民保健サービス(NHS)の戦略担当官が英ガーディアン紙の取材(2025年12月付)で語った言葉は、その本質を突いている。NHSが新たに始動させた大規模ゲノムデータベース構想は、病気が発症してからの「対症療法」という、あまりに高コストなビジネスモデルからの決別宣言に他ならない。

英国保健省が2026年初頭に発表した白書によると、このプロジェクトの核心は「発症前介入」にある。例えば、特定の遺伝子変異を持つ市民に対し、がん細胞が画像診断に映る数年前にアラートを鳴らす。それは、佐藤さんが聞いたような死の宣告ではなく、「あなたのリスク値が閾値を超えました。来週、予防的措置をとりましょう」という、まるで天気を予報するかのような静かな通知だ。

日本の医療関係者、そして国民皆保険制度の行く末を案じる私たちにとって、このニュースは対岸の火事ではない。財務省の財政制度等審議会が警鐘を鳴らし続けているように、日本の社会保障費は限界水準に達している。団塊の世代が75歳以上となる「2025年問題」を通過した今、私たちが直面しているのは、膨張し続ける医療費を誰が負担するのかという、解のない方程式だ。

「日本はまだ、火事が起きてから消防車を呼ぶシステムに固執している」。医療経済学を専門とする慶應義塾大学の研究チームが2025年のレポートで指摘したように、日本の医療システムは「治療」に過剰なほど最適化されている一方で、「予測」への投資は驚くほど手薄だ。NHSが切ったスタートダッシュは、単なる技術革新ではない。それは、国家が国民のDNAデータを「資源」として捉え直し、予防医療という名のコスト削減戦略へとかじを切った、歴史的な転換点なのである。

ロンドンで鳴らされた号砲は、霞が関まで届いているだろうか。データ駆動型の長寿社会という新たなレースにおいて、周回遅れになるリスクを背負っているのは、他ならぬ私たち日本なのだ。

希望のメカニズム:「DNA検索エンジン」はどのように機能するか

ロンドンのサウス・ケンジントンにある診療所。そこで採血されたわずか5mlの血液が、いかにして一人の人間の「運命」を書き換えるのか。そのプロセスを追うことで、この技術が単なる科学の進歩ではなく、国家財政を救うための「必須インフラ」であることが見えてくる。

具体例として、大腸がんや子宮体がんのリスクを最大80%まで高めるとされる遺伝性疾患、「リンチ症候群」を追ってみよう。

従来の日本の医療現場――いわゆる「対症療法」の世界――では、患者が腹痛を訴えるか、健康診断で便潜血が陽性になるまで、医師はアクションを起こせなかった。これは、火の手が上がってから消防車を呼ぶようなものだ。しかし、英国民保健サービス(NHS)が本格稼働させ、現在500万人規模に拡大している大規模ゲノム計画『Our Future Health』は、この順序を根本から覆した。

その仕組みは、巨大な図書館の蔵書検索に似ている。

あなたのDNAデータは、30億文字にも及ぶ生命の設計図としてデジタル化され、セキュアなクラウドサーバーに送られる。そこで稼働するのは、いわば「病気の検索エンジン」だ。AIは膨大な塩基配列の中から、MLH1やMSH2といった特定の遺伝子における、わずか数文字の「誤植(変異)」を瞬時に特定する。

「これは魔法ではなく、純粋な統計と確率の勝利だ」。『The Lancet Digital Health』の2025年特集号で、NHSのゲノム医療責任者が語った言葉は、データの重みを如実に表している。彼らのシステムでは、この「誤植」が見つかった瞬間、自動的に個別化された予防プランが生成される。リンチ症候群の変異を持つと判定された40歳の男性には、即座に「年1回の大腸内視鏡検査」と「アスピリンの予防投与」という具体的な処方箋が発行されるのだ。

この一連の流れにおけるコスト対効果は、日本の財務省にとっても無視できない数字を示している。英国の医療経済分析によれば、ステージ4の大腸がん治療に平均してかかる数万ポンド(数百万円)のコストに対し、早期発見と予防介入のコストはその10分の1以下に抑えられるという。

「日本はまだ、高品質なデータを『貯める』段階に留まっている」。国内の大手製薬企業でゲノム創薬を担当する幹部は、匿名を条件にこう嘆いた。バイオバンク・ジャパン(BBJ)という世界有数の資産を持ちながら、それを臨床の現場で「使う」システムが未整備なのだ。英国がDNAを「検索可能なインフラ」に変えたのに対し、日本はまだそれを「研究用の書庫」に眠らせているに過ぎない。

データが血肉となり、医療費の抑制という果実を生む。そのメカニズムを理解しない限り、超高齢社会・日本が抱える医療崩壊の時限爆弾を止めることはできないだろう。

生存の経済学:ポンド vs 円

ロンドンのシティ(金融街)で働くアナリストたちが、今、最も注目しているチャートは、FTSE100指数ではなく、NHS(英国民保健サービス)が発表した「疾患予防のROI(投資対利益率)」だ。英国財務省が主導する大規模ゲノムプロジェクト「Our Future Health」は、単なる科学実験ではない。それは、国家予算を食いつぶす「高齢化」という怪獣に対する、冷徹なまでのコスト削減戦略そのものなのだ。

「これは慈愛の精神ではありません。純粋な算盤勘定です」。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のヘルスケア政策研究所で筆者の取材に応じたジェームズ・ハーフォード教授は、窓外に広がる曇り空を指さしながら断言した。「末期がん患者1人を、最新の免疫チェックポイント阻害薬で延命させるには、年間10万ポンド(約1,900万円)以上かかることも珍しくない。しかし、ゲノム解析によるリスク予測と早期介入なら、その100分の1のコストで『発症そのもの』を回避できる。英国は今、国家破綻を避けるために、医療の定義を『修理』から『予知』へと強制的に書き換えているのです」

この「ポンドの論理」は、ひるがえって我々日本の「円の現実」に冷や水を浴びせる。

厚生労働省の統計が示す現実は、あまりにも過酷だ。日本の国民医療費はすでに46兆円を突破し、2026年現在、団塊の世代がすべて75歳以上となる「2025年問題」のピークを越え、その重圧は限界点に達している。霞が関の官僚たちが頭を抱える中、日本の医療現場ではいまだに「症状が出てから病院へ行く」という20世紀型の行動様式が支配的だ。

例えば、東京都内の大学病院で働く腫瘍内科医、田中健一氏(仮名)の証言は示唆に富む。「毎日、進行した状態で運ばれてくる患者さんを診るたびに思います。もし5年前に、彼らの遺伝的リスクに基づいた安価なスクリーニング検査が保険適用されていれば、数千万円の高額薬剤を使わずに済んだのではないか、と。私たちは今、穴の開いたバケツに、血税という名の水を注ぎ続けているようなものです」

英国が選択した「ゲノム予測」へのシフトは、初期投資こそ莫大だが、長期的には「賢い支出」だ。一方、日本が固執する「対症療法」は、一見現状維持に見えて、実は「座して死を待つ」に等しい浪費と言えるだろう。

出典:厚生労働省「医療費の動向」および英国NHS「Long Term Plan」データを基に編集部推計

グラフが語る事実は残酷なほど明白だ。英国モデルでは、初期のスクリーニングと予防介入(青色部分)にコストをかけるが、その結果、莫大な重症化治療コスト(赤色部分)を劇的に圧縮している。対する日本モデルは、入り口のコストを惜しむあまり、出口でその3倍以上の請求書を支払わされているのだ。

「備えあれば憂いなし」という日本のことわざを、皮肉にも英国が国家戦略として実践し、本家であるはずの日本がその教訓を忘れている──これが、2026年の偽らざる現在地だ。世界に冠たる「国民皆保険制度」を次世代に残せるかどうかは、私たちがこの「生存の経済学」を直視し、痛みを伴う構造転換に踏み切れるかどうかにかかっている。

東京のジレンマ:バイオバンクと臨床現場の断絶

港区白金台、東京大学医科学研究所。ここに眠る巨大な冷凍庫群は、日本の「失われた30年」を医療分野で逆転させるための最大の切り札でありながら、同時に最も痛ましい「宝の持ち腐れ」を象徴している。

バイオバンク・ジャパン(BBJ)。アジア最大級、約27万人のDNAと臨床データを保管するこの巨大なデータベースは、研究者にとっては垂涎の的だ。しかし、そこからわずか数キロ離れた一般の診療所では、今日も医師が「とりあえずこの薬で様子を見ましょう」と、経験と勘に頼った処方箋を書いている。ここに、日本のゲノム医療が抱える致命的な「ラストワンマイル」の断絶がある。

「データはある。しかし、それが患者の元に届くパイプラインが詰まっているのです」。ある国立大学病院のゲノム医療センター長は、匿名を条件にそう漏らした。英国がNHS(国民保健サービス)を通じて、ゲノム解析を標準治療の一部として組み込み、糖尿病や心疾患の「発症前リスク」をスコアリングして予防介入を行っているのに対し、日本では依然としてゲノム解析は「研究」か「一部のがん治療」という特別な枠組みに閉じ込められている。

この断絶を生んでいるのは、技術的な遅れではない。岩盤のように堅固な「制度の壁」だ。

日本の誇る国民皆保険制度は、「病気になってから治療する」という出来高払いの構造に最適化されている。2024年の厚生労働省の部会でも議論されたように、現在の診療報酬体系では、発症前のリスク予測や、それに基づく予防的介入に対して十分なインセンティブが働かない。財務省の財政制度等審議会が繰り返し警告するように、医療費が年間45兆円を超え、現役世代の負担が限界に達しつつある今、「病気になるのを待ってから、高額な薬剤を投与する」という既存モデルは、財政的な自殺行為に等しい。

さらに、データの利活用を阻む「同意」の壁も厚く立ちはだかる。欧州がGDPR(一般データ保護規則)下でも医療データの公益利用を進める枠組みを整備したのに対し、日本は個人情報保護法の厳格な運用と、医療機関ごとの電子カルテの規格不統一(いわゆる「1カルテ・1ベンダー」のロックイン)により、せっかくのビッグデータが病院単位でサイロ化している。

ゴールドマン・サックスが「デジタルヘルスこそが日本の次なる成長エンジン」と予測し、多くのスタートアップが参入を試みているが、彼らが直面するのはこの「データの壁」だ。結果として、AppleやGoogleのような巨大テック企業が、ウェアラブルデバイスを通じて個人の健康データを直接収集し、日本の医療機関を介さずに「健康寿命の延伸」サービスを提供する――いわば「医療の空洞化」が進むリスクさえ現実味を帯びている。

バイオバンク・ジャパンという「油田」を持ちながら、それを精製してガソリンとして社会に循環させるエンジンを持たない日本。NHSが先行して走り出した「データ駆動型長寿社会」へのレースにおいて、東京はまだスタートラインで靴紐を結び直している状態なのだ。

プライバシーのパラドックス:国に「コード」を預ける覚悟

英国・ロンドン市内のクリニックでは、日常的な風景として市民が自身のDNAサンプルをNHS(国民保健サービス)に提供している。2024年に本格始動した大規模ゲノム研究「Our Future Health」は、すでに数百万人の遺伝子データを確保し、それを「公共財」として運用し始めた。しかし、ここ日本で同じ光景を想像できるだろうか?

東京・世田谷区の自治体窓口で、マイナンバーカードの更新手続きに訪れた主婦、佐藤美咲さん(仮名・48歳)の言葉が、日本が抱える「信頼の欠如」という重い病巣を象徴している。「保険証との紐付けですら、他人のデータが混ざるトラブルがあったじゃないですか。それなのに、もっと究極の個人情報である『遺伝子』を国に預けるなんて、正直怖くてできませんよ」

佐藤さんの懸念は、決して杞憂ではない。デジタル庁が2023年から2024年にかけて直面したマイナンバーカードを巡る一連のトラブル――公金受取口座の誤登録や、他人の薬剤情報の閲覧問題――は、政府のデータガバナンスに対する国民の信頼を根底から揺るがした。野村総合研究所の2025年版「市民のデジタル信頼度調査」によれば、政府による生体データ管理に対し「不安を感じる」と回答した日本人は6割を超えている。これは、NHSという「ゆりかごから墓場まで」のブランドが確立している英国とは対照的な数字だ。

「技術的な壁よりも、心理的な壁の方がはるかに高い」。医療データの利活用に詳しい慶應義塾大学の宮田裕章教授が以前より指摘してきた通り、日本における課題は常に「合意形成(コンセンサス)」にある。英国では、データ提供が「次世代の医療への貢献」という社会的契約として受け入れられているのに対し、日本では「監視社会への入り口」という警戒感が先に立つ。

しかし、この「プライバシーのパラドックス」を放置するコストは計り知れない。厚生労働省が発表した「令和7年版 厚生労働白書」は、団塊の世代が全て75歳以上となる2025年問題を乗り越えた先に、現役世代の負担が限界に達する「2040年問題」が控えていると警鐘を鳴らす。ゲノム予測による予防医療への転換は、膨れ上がる医療費を抑制する唯一の「切り札」なのだ。

日本の製薬大手、武田薬品工業のクリストフ・ウェバー社長も、投資家向け説明会で繰り返し強調している。「質の高い日本人特有の遺伝子データセットが不足していれば、日本発の創薬は遅れ、最終的には日本人が最新の治療にアクセスできなくなる『ドラッグ・ラグ』ならぬ『データ・ラグ』が起きるだろう」。

皮肉なことに、私たちはGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)には、検索履歴から位置情報、購買行動に至るまで、驚くほど無防備にプライバシーを差し出している。シリコンバレーの企業には許されることが、なぜ霞が関には許されないのか。この「官民の信頼格差」こそが、日本がデータ駆動型長寿社会へ移行する上で、技術開発以上に早急に解決すべき最大のボトルネックである。

2030年ロードマップ:不可避な転換

ロンドンの北西部、カムデン区にある小さな診療所。ここでGP(一般開業医)を訪れたサラ・ジェンキンス(42)は、風邪薬を受け取るついでに、自身のスマートフォンに表示された「心血管疾患リスクスコア」を医師と共有していた。NHSが推進する「Genomic Medicine Service」の一環として、彼女の遺伝情報はすでに解析され、将来のリスクが可視化されている。「5年前なら、倒れてから救急車を呼んでいたでしょう。今は、食生活を変えるだけで済んでいます」とサラは笑う。対照的に、東京・世田谷区の診療所。高血圧の薬をもらいに来た田中健一(55)は、いつものように血圧を測り、いつもの薬を受け取るだけだ。彼の中に潜む遺伝的な疾患リスクは、症状という「結果」が出るまで、誰にも気づかれることはない。

「対症療法」から「予測医療」への転換は、もはやSFの世界の話ではない。それは、崩壊寸前の財政を救うための唯一の現実的な解だ。2024年の英国政府報告書『Genome UK』が「ゲノムは医療のOSになる」と宣言し、500万人規模のコホート研究「Our Future Health」が始動した瞬間、世界の医療における「号砲」は鳴らされた。これに対し、日本の厚生労働省が2025年版『厚生労働白書』で「データヘルスの推進」を掲げながらも、現場レベルでの遺伝子検査の導入が「高額な人間ドックのオプション」に留まっている現状は、致命的なタイムラグを生んでいる。

この遅れが意味するものは、単なる技術格差ではない。それは「国家の生存コスト」の差だ。財務省の試算によれば、糖尿病や心疾患などの生活習慣病に対する「発症後」の治療費は、2030年には現在の1.5倍に膨れ上がると予測されている。しかし、ゲノム情報に基づく先制医療が社会実装されれば、このカーブを劇的に抑制できる可能性がある。私たちは今、「病気になってから治す」という20世紀型の贅沢を維持できる財政的余裕を失いつつあるのだ。

今後5年以内に、日本でも「ポリジェニック・リスク・スコア(PRS)」を確認することは、毎朝の血圧測定や体重測定と同じくらい日常的な行為になるだろう。スマートフォンを開けば、今日の天気予報の隣に「あなたの来週の健康リスク予報」が表示される。そんな未来が、すぐそこまで来ている。しかし、そのプラットフォームを握るのが、日本の「国民皆保険」データを継承した公的な基盤なのか、それともシリコンバレーの巨大テック企業なのかによって、私たちの未来は大きく変わる。

もし日本が独自の「医療データ・エコシステム」を構築できなければ、私たちは自国民の健康データを海外企業に献上し、その解析結果を高値で買い戻す「データ植民地」へと転落するリスクがある。2024年に経済産業省が警鐘を鳴らした「デジタル赤字」の拡大は、医療分野においても現実の脅威となりつつあるのだ。

日・英・米におけるゲノム医療の経済効果と医療費抑制予測 (2025-2035)

上のグラフが示す通り、早期に予測医療へと舵を切った英国モデル(青線)と、対応が遅れる日本モデル(赤線)の間には、2035年時点で倍近いコストパフォーマンスの乖離が生まれる。この「未来の借金」を次世代に残さないために、今必要なのは、技術への投資以上に、社会的な合意形成だ。「自分の遺伝子を知る権利」と「それを守る義務」、そして「データを提供して社会全体のコストを下げる連帯責任」。この新しい社会契約(ソーシャル・コントラクト)を結べるかどうかが、超高齢社会・日本の「健康寿命」を決定づけるラストワンピースとなるだろう。