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デジタルな壁の亀裂:イランの「沈黙の2週間」と接続性を巡るゲリラ戦

AI News Team
デジタルな壁の亀裂:イランの「沈黙の2週間」と接続性を巡るゲリラ戦
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起:八千万人の静寂

2026年1月、テヘランのデジタルな鼓動が突如として停止しました。物理的な発電所が攻撃されたわけではありませんが、その衝撃は、日本列島を襲う大型台風が主要な物流網を寸断した時のように、静かで、かつ致命的なものでした。8,000万人――日本の総人口の約3分の2に相当する人々が、瞬く間にグローバルな情報の海から切り離され、孤立したのです。

この2週間にわたる「デジタルの静寂」は、テヘランの街頭で物理的に繰り広げられた抗議活動の激しい喧騒と、不気味なほどのコントラストを描いていました。通りには怒号が飛び交っていましたが、スマートフォンの中は真空のような沈黙に支配されていたのです。国際的なインターネット監視団体であるNetBlocksのデータ分析によると、この期間のインターネット遮断による経済損失は、1日あたり推定4,500万ドル(約65億円)にも上ると試算されています。

この数字は、単なるマクロ経済の統計にとどまりません。テヘランのバザールでサフランや絨毯を扱う中小の商人にとっては、海外の顧客との決済手段と連絡網を同時に失うことを意味し、中東情勢を注視する日本の政策立案者やエネルギー企業にとっては、現地の正確なリスク評価が不可能になる「視界不良」を意味しました。

イラン政府はかねてより、外部のインターネットに依存しない「国家情報ネットワーク(NIN)」の構築を強力に推進してきました。これは、表向きにはサイバーセキュリティの強化とデジタル主権の確立を目的としていましたが、今回の完全遮断は、NINが現代の複雑なグローバル経済において、インターネットの代替インフラとして機能し得ないことを冷酷なまでに露呈させる結果となりました。

イランにおけるインターネット遮断の推定経済損失(1日あたり・百万米ドル)

承:孤立のアーキテクチャと経済的窒息

テヘラン市内のカフェで、あるフィンテック開発者がノートパソコンを開いたとき、彼の画面には「イランのインターネット」の奇妙な二重性が映し出されていました。国内の決済ネットワーク「Shetab」はミリ秒単位の遅延でスムーズに動作し、顧客の送金処理は滞りなく行われています。しかし、彼が開発に必要なライブラリをダウンロードしようと国際的なリポジトリにアクセスした瞬間、接続はタイムアウトしました。これこそが、イラン政府が20年近くかけて構築してきたNIN、通称「SHOMA」の2026年における完成形であり、その限界の姿です。

技術的な観点から見れば、NINの核心は「選別的なルーティング」にあります。イランのISP(インターネットサービスプロバイダ)は、政府の命令一つでBGP(Border Gateway Protocol)の経路情報を書き換え、国際ゲートウェイへのアクセスを遮断します。しかし、国内のデータセンター同士を結ぶIXP(インターネット相互接続点)は稼働し続けるため、国内の銀行、行政サービス、そして国営メディアは「オンライン」の状態を保つのです。政府はこれを「スマートな検閲」と位置づけ、暴動が発生した地域からの国際通信を遮断しつつ、重要インフラの稼働を維持しようと試みました。

しかし、この「選別」は経済的合理性の前で脆くも崩れ去りました。現代のサプライチェーンは、API連携やクラウドベースの在庫管理など、外部との常時接続を前提に構築されています。VPNを遮断することは、実質的に経済の大動脈を止血帯で縛るようなものです。

テヘランに駐在経験を持つ日本の商社関係者は、「以前であればメッセージングアプリで数分で完了していた信用状(L/C)の確認が、現在は物理的な書類のやり取りや不安定な回線に頼らざるを得ず、昭和の貿易実務に戻ったようだ」と語ります。イラン商工会議所の内部レポートも、遮断の最初の48時間だけで国内中小企業の40%が業務停止に追い込まれたと示唆しており、「デジタル主権」を過度に追求するコストが、国家の経済基盤そのものを侵食している現状を浮き彫りにしています。

転:空と点からの突破、そして「スプリンターネット」の現実

国家が築いたデジタルの壁に対し、市民は「空」と「点」を使った物理的な突破口を見出しました。テヘラン北部の集合住宅では、イラク国境を越えて密輸された低軌道衛星(LEO)端末が稼働し始めています。2026年、スターリンクをはじめとする第2世代(Gen-2)衛星端末の小型化は、移動しながらの通信を可能にし、政府の検閲システムを無力化する「デジタル・ダンケルク」を形成しつつあります。

これに呼応するように、スマートフォン同士を直接繋ぐメッシュネットワーク技術も進化を遂げました。検閲不可能なP2P通信アプリを駆使し、衛星端末からダウンロードされた海外ニュースや市場レートを、人から人へとバケツリレー方式で拡散させる「人間ルーター」現象が起きています。これは、技術が権力による中央集権的な制御を凌駕した稀有な瞬間と言えるでしょう。

しかし、この接続回復は決して平等なものではありません。部分的な接続再開が浮き彫りにしたのは、インターネットがもはや単一の「ワールド・ワイド・ウェブ」ではなく、国境や政治体制によって分断された「スプリンターネット(Splinternet)」へと変貌している現実です。

衛星端末は高額であり、闇市場での価格は定価の5倍にも高騰しています。その結果、グローバルな情報へのアクセスは、富裕層や技術的エリートだけが享受できる贅沢品となりつつあります。テヘランの輸出業者は「私たちが戻ってきたのは、世界への扉ではなく、デジタルな鳥籠の中だ」と嘆きます。政府のホワイトリストにある国内サイトしか閲覧できない一般市民と、壁を越えられる一部の層との間に、新たなデジタル・デバイド(情報格差)が生まれているのです。

結:抵抗としての接続性とガバナンスのジレンマ

イランにおける今回の事象は、単なる一国の通信障害ではなく、21世紀のインターネット・ガバナンスが直面する構造的なジレンマを提示しています。国家情報ネットワーク(NIN)モデルの限界は、情報の主権を追求すればするほど、経済的合理性が失われるというトレードオフにあります。

「もはや、完全に遮断することは不可能です」。テヘランの現場エンジニアが語るように、分散型テクノロジーは壁の隙間を縫ってデータを運び続けています。国家が情報統制を強めるほど、その維持コスト(DPI機器の増強や経済活動の停滞)は指数関数的に増大し、最終的には国家自身の首を絞める結果となります。

日本の政策立案者や企業にとっても、この「デジタル鎖国」の失敗は対岸の火事ではありません。経済安全保障の観点から独自のネットワーク網やデータローカライゼーションが議論される中、イランの事例は、過度なコントロールがイノベーションと経済的活力をどれほど急速に枯渇させるかという、重い教訓を突きつけています。2026年の世界において、接続性はもはや単なるインフラではなく、経済生存のための生命線なのです。