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ハーグの審判とマニラの動揺:ドゥテルテ公判開始が問う「アジアの正義」と日本のジレンマ

AI News Team
ハーグの審判とマニラの動揺:ドゥテルテ公判開始が問う「アジアの正義」と日本のジレンマ
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ハーグからの衝撃波

2026年1月27日、オランダ・ハーグ。国際刑事裁判所(ICC)の前審理裁判部は、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ前大統領に対する「人道に対する罪」での公判開始を決定したという、極めて重い司法判断を下しました。この一報は、単なる法的手続きの進展という枠を超え、マニラの政界に激震を走らせ、東南アジアの地政学的バランスさえも揺るがす波紋を広げています。

「正義の歯車は遅くとも、確実に回り始めた」。ICCのカーン主任検察官が記者会見で語ったこの言葉は、マニラの早朝、スマートフォンを通じて瞬く間に拡散されました。ドゥテルテ政権下で強行された「麻薬撲滅戦争(War on Drugs)」において、数千、あるいは数万とも言われる市民が適正な法手続きなしに殺害されたとされる疑惑。これまで予備調査の段階に留まっていたこの事案が、ついに具体的な刑事責任を問う公判ステージへと移行したことは、国際司法が国家元首経験者の免責特権に対して一歩も引かない姿勢を鮮明にしたことを意味します。

老いと責任:80歳の被告人は法廷に立てるのか

今回の決定において、法曹関係者や外交筋が最も注目していた点の一つが、現在80歳に手が届こうとしているドゥテルテ氏の「訴訟能力(Fitness to Stand Trial)」に関する判断でした。弁護団は予備審問において、高齢による健康不安や認知機能の低下を理由に、公判に耐えられないと主張していました。

しかし、ICC前審理裁判部は、提出された独立医療委員会のレポートを基に、「被告人は自身の置かれた法的状況を理解し、弁護人と意思疎通を図る能力を有している」と認定し、健康問題を理由とした公判停止の申し立てを却下しました。この判断は、ピノチェト元チリ大統領の裁判など、過去に健康問題を理由に正義の追求が阻まれたケースとは一線を画すものであり、「年齢は免罪符にならない」という国際司法の強い意志を示しています。

「麻薬戦争」の代償と民意の乖離

マニラのスラム街、トンド地区の狭い路地裏には、今も「浄化」の記憶が生々しく刻まれています。フィリピン国家警察(PNP)が公式に認める「麻薬戦争」による死者数は、2016年から2022年の政権下で約6,252人とされています。しかし、この数字を額面通りに受け取る専門家は多くありません。国際人権団体や現地で取材を続けた独立系ジャーナリストたちの推計は、その3倍から5倍、最大で3万人近くに達すると試算しています。

フィリピン「麻薬戦争」死者数の推計乖離 (2016-2022)

問題の本質は、この暴力が「超法規的殺人(EJK)」として常態化した点にあります。しかし、ここで我々は不可解なパラドックスに直面します。これほどの流血を経てもなお、ドゥテルテ氏の支持基盤、いわゆる「DDS(Diehard Duterte Supporters)」は、2026年の今も強固に存在し続けているという事実です。

マニラのビジネス街マカティで働く中間層や、ダバオのタクシー運転手の多くが口にするのは「体感治安の改善」という実利です。多くの市民にとって、抽象的な「人権」よりも、夜道を独りで歩ける「安全」の方が遥かに切実な価値を持っていました。ドゥテルテ氏は、既存の司法システムへの絶望感を利用し、「悪を即座に排除する強いリーダー」という偶像を作り上げたのです。

しかし、マルコス・ジュニア現政権下で、その「聖域」は崩れ始めています。今回のICCの介入は、かつては内政干渉として跳ね除けられていましたが、政敵となりつつあるドゥテルテ一族を無力化したい現政権の一部勢力にとっては、渡りに船の政治的カードとなり得る状況が生まれています。

トランプ2.0とICCの無力化

この司法判断の実効性を複雑にしているのが、米国政治の変容です。トランプ政権2年目を迎えたワシントンは、国際刑事裁判所(ICC)に対して厳しい姿勢を崩していません。2026年に入り、ホワイトハウスは米国の主権を優先する姿勢を改めて強調しており、ICCとの協力関係は凍結された状態が続いています。

国際法専門家や業界アナリストが注視しているのは、米国がICCの権威を否定することで、フィリピン国内の親ドゥテルテ派が「これは西洋による主権侵害である」というナショナリズムの言説を強化する隙を与えている点です。CSIS(戦略国際問題研究所)などの政策動向に詳しい専門家の一部は、トランプ政権がアジアにおける対中戦略を優先し、フィリピン国内の政治的安定を損なうようなICCの動きには冷淡である可能性を指摘しています。

主要国におけるICC支持度と対米協調路線の相関 (2026年予測値 - Source: Global Policy Institute)

米国の不在は、アジアにおける「正義」の執行をいびつなものに変容させます。ASEANが長年堅持してきた「内政不干渉」の原則が、米国という後ろ盾を失った国際司法によって揺さぶられる時、その余波はフィリピン一国に留まりません。

北京の影と「避難所」というシナリオ

ドゥテルテ前大統領が追い詰められる中、懸念されているのが中国の動向です。マニラでは、マルコス・ジュニア大統領が米国との連携を深める一方で、ダバオを拠点とするドゥテルテ派が中国との独自のパイプを維持していることは周知の事実です。

地政学リスクの専門家たちは、一つの可能性として、中国がドゥテルテ氏に対し事実上の「政治的避難所」を提供するシナリオを分析しています。ICC非加盟国である中国が、「司法の武器化に反対する」という名目で介入する可能性はゼロではありません。もしダバオやミンダナオ島への中国資本の流入が、単なる経済活動を超えて政治的な意味を持ち始めれば、日本と米国が構築してきた「第一列島線」の防衛構想に影響を与える可能性があります。

シンガポールのISEASユソフ・イシャク研究所などのレポートも、マニラの外交方針が国内の権力闘争によって不安定化することこそが、南シナ海における中国の利益になり得ると警告しています。ドゥテルテ氏を巡る法廷闘争は、単なる一国内の人権問題を超え、インド太平洋のパワーバランスに関わる地政学的な火種となりつつあります。

日本の沈黙と外交的綱渡り

東京の霞が関では、ドゥテルテ前大統領の公判開始という報を、複雑な心境で受け止めています。日本はICCの最大の拠出国の一つとして「法の支配」を掲げる一方で、フィリピンとの安全保障協力を深めるという、相反しかねない課題を抱えているからです。

2024年に署名された日比円滑化協定(RAA)により、自衛隊とフィリピン軍の相互往来は緊密化しています。しかし、ドゥテルテ氏の支持基盤がいまだ強固な中で、ICCによる訴追が反政府感情を刺激すれば、マルコス政権の基盤が揺らぎかねません。

日本の対フィリピン安全保障支援額とICC分担金の推移 (Source: 外務省・JIIA 2026年推計)

大手総合商社のアジア担当幹部や業界関係者の間では、「現地のビジネス環境にとって、法の支配の確立は重要だが、短期的には政情不安によるプロジェクト遅延が懸念される」との声も聞かれます。ASEAN諸国が静観を決め込む中、日本がどのようなメッセージを発するのか。その「静かな外交」の真価が問われています。

法の支配か、地域の安定か

2026年のアジアが目撃しているのは、リベラルな国際秩序が、トランプ流の取引外交とASEAN独自の生存本能の間で、その実効性を厳しく問われている姿です。

フィリピンにおける「正義の行方」は、一国の過去を裁くだけでなく、アジアの未来における「安定の定義」を書き換えることになるでしょう。地政学的な安定のために沈黙する正義か、それとも混乱を招いてでも貫くべき正義か。日本を含む国際社会は、その難しい問いへの答えを、ドゥテルテ裁判という舞台を通じて模索し続けることになります。