孤立する日銀:FRB「利下げ凍結」が突きつける円安の構造的現実

裏切られた市場の楽観論
2026年の幕開けと共に、ウォール街と兜町にはある種の「甘美な幻想」が漂っていた。インフレは鎮静化し、FRB(連邦準備制度理事会)は予防的な利下げに転じ、日米金利差の縮小が自然と円安圧力を和らげる――。このシナリオは、多くの機関投資家にとって、ポートフォリオ構築の前提条件となっていた。しかし、1月のFOMC(連邦公開市場委員会)後のパウエル議長の会見は、その楽観論に冷や水を浴びせるには十分すぎるほど現実的かつ冷徹なものだった。
市場が直面したのは、単なる「利下げ時期の先送り」ではない。「トランプ2.0」政権下で再び動き出した関税引き上げと移民規制強化がもたらす構造的なインフレ圧力に対し、金融政策が「高止まり(Higher for Longer)」で対抗せざるを得ないという、新しい現実である。ブルームバーグの金利先物市場データが示すように、昨年末時点で市場が織り込んでいた「年内3回の利下げ」の確率は、この数週間で霧散した。代わりに浮上したのは、経済の底堅さを背景にした「ノー・ランディング」、あるいは再加速のリスクである。

この政策変更の衝撃を、肌感覚として最も痛切に感じているのは実体経済の最前線にいる経営者たちだ。東京都大田区で海外製精密部品の専門商社を営む佐藤健太氏(58)は、画面上の為替チャートを睨みながら深いため息をついた。「昨年末、銀行のエコノミストは『春には1ドル130円台も見えてくる』と言っていました。その言葉を信じて、為替予約の比率を下げてしまったのが致命傷です」。佐藤氏の会社では、輸入コストの増大を価格転嫁しきれず、利益率が前年比で15%近く圧迫されている。FRBの利下げによる円高転換を「神風」として期待していた経営戦略は、トランプ政権の財政拡張路線とFRBのインフレ警戒姿勢という、二つの巨大な力の前に脆くも崩れ去った。
市場の動揺は、期待と現実の乖離幅に比例する。通常、景気減速シグナルが出れば中央銀行は緩和に動く。しかし、2026年の米国経済は、保護主義的な産業政策とAI投資ブームによる設備投資の増加が相まって、奇妙なほどの熱を帯び続けている。パウエル議長が選んだのは、市場の期待を裏切ってでも物価安定のアンカーを守るという、極めて正統的だが不人気な道であった。
結果として、為替市場では再び「ドル一強」の構図が鮮明になりつつある。これは日銀にとって、もはや「他力本願」ではいられないことを意味する。米国からの利下げという救命ボートが来ない以上、円安是正と物価安定のためには、自らの手で金融正常化の舵を大きく切る必要に迫られているからだ。
2026年 米国政策金利見通しの乖離 (市場予想 vs FRB示唆)
「トランプ2.0」が招くインフレの粘着性
ウォール街が2025年末にかけて描いていた「美しいディスインフレ(物価上昇率の低下)」のシナリオは、2026年1月の冷たい風と共に吹き飛んだ。FRBが利下げの手綱を緩めない最大の理由は、パウエル議長が繰り返す「データ次第」という言葉の裏にある、より構造的な変化だ。それは、第2次トランプ政権が推進する「米国第一主義」の経済政策そのものが、インフレの種火を絶やさない燃料として機能し始めたという事実である。
なぜ米国のインフレはこれほどまでに粘着的なのか。その主因は、トランプ政権が課した広範な関税措置と、強力な国内回帰(リショアリング)政策による労働需給の逼迫という「二重螺旋」にある。2025年後半に導入された特定品目への追加関税は、輸入品価格を直接的に押し上げただけでなく、競合する国内生産者にも価格転嫁の余地を与えた。さらに、移民規制の厳格化はサービス業を中心とした慢性的な労働力不足を招き、賃金上昇圧力がサービス価格の高止まりを支え続けている。
米国CPI寄与度の推移:財(Goods)インフレの再燃 (出典: 米労働省統計局データに基づく推計)
上図が如実に物語る通り、2025年前半まではマイナス圏(デフレ圧力)にあった「財(Goods)」の寄与度が、トランプ政権の通商政策が本格化した第3四半期以降、明確なプラストレンドに転じている。これに、依然として3%台で推移するサービスインフレが重なることで、CPI(消費者物価指数)全体の下方硬直性が強固なものとなっている。
また、JPモルガン・チェースの市場分析部門が指摘するように、「規制緩和によるアニマルスピリッツの復活」もまた、皮肉なことに利下げを遠ざける要因となっている。法人税減税の恒久化やエネルギー関連規制の撤廃期待から、米国内の設備投資意欲は予想以上に底堅い。「景気が良すぎるがゆえに、金利を下げられない」。このジレンマこそがトランプ2.0経済の正体であり、日銀にとっては「米国の利下げによる円安是正」という安易な出口が、当面の間封鎖されたことを意味する。
日銀総裁の憂鬱とシナリオ崩壊
日本橋本石町、日本銀行本店の総裁室に流れる空気は、かつてないほど重苦しい。ワシントンから届く風は、冷徹かつ熱を帯びている。1月のFOMCで示唆された「利下げ停止」は、単なる一時的な景気調整ではない。それは、米国経済が「高圧経済」を常態化させ、ドル金利が高止まりし続けるという、新しいレジームへの移行を意味している。
このマクロ経済の歪みは、中小企業の現場に容赦なく押し寄せている。都内で輸入食材店を営む高橋由美氏(45)は、「円安による仕入れ値の高騰は、もう企業努力で吸収できるレベルを超えました」と語る。彼女の店では、チーズやワインの価格を2割引き上げざるを得ず、客足への影響を懸念している。高橋氏のような小規模事業者にとって、日銀の「慎重な姿勢」はもはや、救済ではなく緩やかな窒息を意味している。
崩れた期待:市場予測と現実の乖離 (米政策金利)
植田総裁(あるいは現在の総裁)が直面しているのは、「良いインフレ」と「悪いインフレ」の境界線が消失しつつある現実だ。賃金と物価の好循環を目指してきた日銀だが、現在の輸入物価上昇は、国内需要を冷やす「悪いインフレ」の側面が色濃い。米国経済の過熱がもたらす輸入インフレを抑制するためには、国内景気の腰折れリスクを冒してでも、日銀自身が金利を引き上げ、円の魅力を自律的に回復させる以外に道はない。
かつての日銀は「異次元緩和」という強力な武器でデフレと戦った。しかし現在求められているのは、武器を振るう勇気ではなく、手術台の上で出血を止めながら、同時に体力を維持するという極めて高度な外科手術である。FRBの背中を追いかけていればよかった時代は終わった。トランプ2.0時代の荒波の中で、日本銀行は「独立した中央銀行」として、政治的にも経済的にも極めて不人気な決断――住宅ローン金利の上昇やゾンビ企業の淘汰を伴う利上げ――を、自らの意思で下さなければならない局面に立たされている。
再び動き出す円キャリー取引の亡霊
ウォール街のアルゴリズムが再び、「円売り・ドル買い」のシグナルを一斉に点灯させた。2026年1月、FRBが利下げサイクルの「無期限停止」を示唆した瞬間、東京市場には冷ややかな現実が突きつけられた。かつて日本経済を苦しめた「円キャリー取引」の亡霊が、トランプ2.0時代の新たな構造的リスクとして蘇ったのである。
市場データはこの断絶を冷徹に裏付けている。ゴールドマン・サックスの最新の顧客向けメモが指摘するように、ヘッジファンドによる円ショート(売り)のポジションは、2025年末の調整局面を経て、再び過去最高水準へと積み上がり始めている。その背景にあるのは、トランプ政権による「アメリカ・ファースト」の財政刺激策が、皮肉にもFRBの手を縛り、高金利環境を長期化させるというシナリオだ。

投資家にとって、変動の少ない低金利の円を借り、5%を超える利回りを維持する米ドル資産や、AIブームに沸く米国株に投資することは、もはや「賭け」ではなく、確実性の高い「裁定取引」と化している。しかし、このキャリー取引の再開がもたらす副作用は深刻だ。かつては輸出企業の業績押し上げ効果として歓迎された円安も、いまやエネルギー価格や食品価格の上昇を通じて家計を直撃する「悪い円安」としての側面を強めている。
「ノー・ランディング」という最大の死角
市場が最も恐れていた、しかし直視することを避けてきたシナリオが現実味を帯びている。「ソフトランディング(軟着陸)」でも、景気後退を伴う「ハードランディング(硬着陸)」でもない。米国経済がその高度を下げず、むしろ再加速しながらインフレ圧力を維持し続ける「ノー・ランディング(無着陸)」の常態化だ。
佐藤氏や高橋氏の苦境は、このマクロ経済の歪みがミクロの現場に凝縮された姿である。米国商務省が先週発表した個人消費支出(PCE)データは、市場予想を上回る堅調さを示し、FRBが利下げに踏み切る正当性を完全に奪った。この状況下で、日本銀行は極めて困難な決断を迫られている。これまでの緩和的なスタンスを維持すれば、日米金利差は固定化され、円は投機的な売りの対象として脆弱なまま放置される。
ゴールドマン・サックスのレポートが指摘するように、現在の円安は単なる通貨の需給バランスの問題ではない。それは、異なる成長軌道とインフレ構造を持つ二つの経済圏の「断層」が拡大している証左である。「ノー・ランディング」という米国の繁栄は、日本にとっては終わりの見えない輸入インフレという「重荷」となってのしかかる。
自律的金融政策への覚悟
かつて市場を支配していた「FRBがいずれ利下げに転じれば、円安は自然に是正される」という楽観論は、もはや捨て去るべき幻想となった。2026年のワシントンから発信されるシグナルは明確だ。トランプ政権による関税引き上げと財政拡張がもたらす構造的なインフレ圧力は、パウエル議長の手足を縛り続けている。
2026年の日本に求められているのは、円安を嘆くことではなく、円安を是正するためのコストを支払う合意形成だ。住宅ローン金利の上昇や、限界企業の退出といった「不都合な真実」を、政治と日銀が国民に説明し切れるかが問われている。「他力本願」の時代は終わった。自律的な金融政策への回帰は、日本が経済主権を取り戻し、トランプ2.0時代の荒波を自らの足で乗り越えるための独立宣言に他ならない。