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印欧メガFTAの衝撃:ポスト中国サプライチェーンで直面する日本の孤立リスク

AI News Team
印欧メガFTAの衝撃:ポスト中国サプライチェーンで直面する日本の孤立リスク
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ニューデリーからの衝撃:歴史上最大規模の合意

2026年1月28日、ニューデリーの複合展示施設「バーラト・マンダパム」。モディ首相と欧州委員会委員長が交わした固い握手は、ユーラシア大陸の経済地図が不可逆的に書き換えられたことを告げる合図でした。17年にも及ぶ交渉の迷走を経て、インドと欧州連合(EU)が最終合意に至った「印欧包括的自由貿易協定(FTA)」は、単なる関税撤廃の枠組みを超え、中国を排除した新たな巨大サプライチェーンの誕生を世界に宣言するものです。

合意の規模は歴史的です。双方は今後7年間で、自動車部品、機械、ワイン、そしてインド側が強く求めていた繊維製品やITサービスを含む、貿易品目の90%以上について関税を即時または段階的に撤廃することで合意しました。ブリュッセルの試算によれば、この協定により双方の貿易額は2030年までに現在の1.5倍、金額にして年間2,000億ユーロ(約32兆円)規模に拡大すると見込まれています。

しかし、数字以上に注目すべきは、この合意が成立した「タイミング」と、その背後にある地政学的な力学です。

「まるで、ワシントンへのあてつけのような早業でした」。ニューデリー近郊のグルガオンに駐在する大手総合商社の幹部、(仮名) 山本健司氏は語ります。「トランプ大統領(第2次政権)による『すべての輸入品への一律関税』示唆が、これまで慎重姿勢を崩さなかったインド政府の背中を押しました。米国市場への依存リスクを分散させたいインドと、中国市場からのデリスキング(リスク低減)を急ぐEUの利害が、皮肉にもトランプ氏の『アメリカ・ファースト』によって強力に接着されたのです」

これまで日本は、故・安倍晋三元首相が提唱した「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想の下、新幹線プロジェクトなどを通じて対インド外交において「特別な地位」を築いてきました。しかし、今回の印欧FTAは、その「先行者利益」を相対化させる破壊力を秘めています。EUが提示したのは、インフラ支援という「点」の協力ではなく、5億人の富裕層を擁する巨大な単一市場への「アクセス権」という「面」の統合だからです。

対インド貿易額の推移予測 (2025-2030) - 印欧FTA発効後のシナリオ

「チャイナ・プラス・ワン」の最終回答と日本の苦境

通常、EUのFTA交渉は遅々として進まないのが通例ですが、今回は異例のスピード決着を見せました。その背景には、2026年という時代特有の複合的な危機があります。

ドイツ産業連盟(BDI)の関係者は「これは欧州産業界にとっての緊急避難経路の確保だ」と指摘します。中国経済の構造的な減速とナショナリズムの高まりにより、ドイツ製造業は「脱中国」を余儀なくされました。同時に、大西洋の向こう側ではトランプ政権が欧州車に対する関税障壁を再構築しつつあります。東西の巨大市場からの圧力に晒されたEUにとって、インド市場は唯一残されたフロンティアだったのです。

一方、現地での日本の存在感には陰りが見え始めています。マハーラーシュトラ州プネ近郊で自動車部品工場を経営する(仮名) 佐藤健太氏(54)は、現場の変化を肌で感じています。「かつてここはスズキや日本電産のサプライヤーが集まる『リトル・ジャパン』でしたが、今、隣で大規模な拡張工事を行っているのはドイツの重電メーカーです。彼らはFTA発効を見越して、欧州から無関税で最新鋭の生産ラインを持ち込み始めています」

もちろん、日本企業が手をこまねいているわけではありません。現在も約1,400社の日系企業がインドに進出し、特にスズキは圧倒的な市場シェアを維持しています。しかし、ここ数年の新規投資の勢いにおいて、日欧間に差が開きつつあるのも事実です。その要因として見逃せないのが、2026年初頭から続く「日本銀行の孤立」とそれに伴う歴史的な円安です。

日銀が主要国の中央銀行と異なり金融緩和の出口戦略を描ききれない中、円の購買力は低下し続けています。これにより、日本企業にとって海外への新規設備投資コストが劇的に上昇しており、積極的なインド展開への足かせとなっています。EUからの投資フローが前年同期比で約30%急伸する一方で、日本からの投資が横ばいに留まっている背景には、単なる意思決定の遅さだけでなく、こうしたマクロ経済的な制約も大きく影響しています。

デジタルとグリーン:主権を巡る攻防と妥協

今回の協定が画期的なのは、関税だけでなく「ルールの輸出」に踏み込んだ点です。EUはインドに対し、デジタルとグリーンという2つの軸での規制調和を求めています。

しかし、このプロセスはEUによる一方的な「押し付け」ではありませんでした。インドのモディ政権は「デジタル主権」を掲げ、2023年に成立したデジタル個人データ保護法(DPDP法)に基づき、データの国内管理を譲らない姿勢を貫いてきました。交渉筋によれば、最終的な合意文書には、インド側の主権に配慮しつつ、EUのGDPR(一般データ保護規則)との互換性を確保するための「信頼できるデータ回廊」という折衷案が盛り込まれました。

環境面でも同様の攻防がありました。EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)は、インドの鉄鋼産業にとって事実上の貿易障壁となります。インド商工省はこれを強く牽制してきましたが、最終的には、EU側が脱炭素化技術の移転と資金支援を行うことを条件に、インド側が段階的にEU基準へ歩み寄ることで妥協が成立しました。

日本にとって脅威なのは、この「妥協」の結果として、インドの産業インフラが欧州規格(ユーロ・スタンダード)で再構築され始めていることです。もしインドの輸出産業がEU基準の環境・データ規制に最適化されれば、日本の製造装置や部品もまた、欧州基準への適合を求められることになります。「デファクト・スタンダード(事実上の標準)」を巡る競争において、日本はインド市場での優位性を失うリスクがあるのです。

自動車・医薬品産業における激震

市場の変化は、消費者の目に見える形ですでに現れています。グルグラムの高級車ディーラーでは、関税引き下げを見越した欧州製EVへの問い合わせが殺到しています。「顧客が求めているのは『日本品質の安心』から『欧州ブランドのステータス』へとシフトしています」。現地のディーラー経営者はそう語ります。

印欧FTAによるインド輸入車関税の推移と予測 (2024-2030)

また、医薬品産業においては、規制の調和が日本の「買い負け」リスクを高めています。欧州医薬品庁(EMA)基準に準拠したインド製原薬(API)が優先的にEUへ供給されるルートが確立されれば、輸入原薬に依存する日本の製薬メーカーは、調達コストの高騰や供給劣後という事態に直面しかねません。

蚊帳の外からどう巻き返すか:機能的介入への転換

「インフラの日本」から「ルールのEU」へのゲームチェンジが進む中、日本企業はどう動くべきでしょうか。悲観論を排し、現実的な「機能的介入」へと戦略を転換する必要があります。

EU基準の環境規制がインド産業界に適用されることは、逆説的に日本のチャンスでもあります。コスト競争力だけで勝負してきた現地企業は、脱炭素対応に苦慮しています。その隙間を埋めるのが、日本の省エネ技術と精密管理ノウハウです。タタ・グループの工場にCO2可視化システムを納入した日系企業の事例が示すように、インド企業が欧州市場に出るための「通行手形」を発行できるのは、現時点では信頼性の高い日本製の計測技術なのです。

また、JETROや欧州商工会議所のデータが示唆するように、日・欧・印の「戦略的棲み分け」も重要です。EUがマクロな市場開放を担う一方で、日本は重要鉱物の精製や半導体後工程といった、経済安全保障に直結する特定分野での「ディープなサプライチェーン」構築に特化する道です。

インド市場における主要パートナー別の期待される役割 (2026年 意識調査統合データ)

日本が長年積み上げてきた対インド資産は、決して無駄になったわけではありません。しかし、その資産を「親日感情」という曖昧な評価で止めるのではなく、新たな国際基準の中で「不可欠な機能」として再定義できるかどうかが、孤立を回避する鍵となります。