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英国「二股外交」の岐路:トランプ2.0と対中実利の危険な相克

AI News Team
英国「二股外交」の岐路:トランプ2.0と対中実利の危険な相克
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ブレグジット後の孤独とロンドンの焦燥

シティ・オブ・ロンドンの高層ビル群の間を吹き抜ける風は、2026年の冬、かつてない冷たさを帯びているように感じられる。テムズ川を見下ろすオフィスの窓際で、大手総合商社のロンドン駐在員である(仮名) 高橋陽介 氏は、渋い表情でタブレット端末に表示された貿易統計を見つめていた。「かつて英国は欧州へのゲートウェイでしたが、今は『孤立した島』です。ここで生き残るために、彼らがなりふり構わず中国資本に手を伸ばすのは、ある意味で必然なのです」と高橋氏は語る。彼の言葉は、ブレグジットという壮大な実験が直面している冷厳な現実を映し出している。

英国がEUを離脱した際に掲げた「グローバル・ブリテン」というスローガンは、2026年の現在、色あせた看板と化している。英国国家統計局(ONS)のデータによれば、EU離脱後の製造業における対欧州輸出は構造的な停滞が続いており、特に高橋氏が担当する自動車部品セクターでは、通関手続きの煩雑化と関税リスクにより、一部のサプライヤーでは2020年比で輸出が3割近く減少するケースも報告されている。英国予算責任局(OBR)の予測によれば、EU離脱による長期的生産性の低下は依然として4%程度と見込まれており、これは経済の地盤沈下を意味している。

ロンドンが焦燥感を募らせる最大の要因は、頼みの綱であった米国との自由貿易協定(FTA)交渉の暗礁である。第2期トランプ政権は「アメリカ・ファースト」を鮮明にし、英国に対して譲歩を迫っている。通商交渉の場では、以前から懸念されていた農業分野の開放や、国民保健サービス(NHS)市場へのアクセスといった、英国にとって政治的に極めてセンシティブな要求が、トランプ政権の交渉カードとして再び浮上している。「特別な関係(Special Relationship)」という外交辞令は、ホワイトハウスの実利主義の前では無力化し、英国はワシントンからの「冷遇」に直面しているのだ。

英国の対中・対米貿易依存度の推移予測 (2020-2026)

「ステルス外交」:レッドラインを避ける英国の戦術

ロンドンの金融街「シティ」の深層では、ホワイトハウスの鋭い視線を巧みにかわす、ある静かなる実験が進行している。トランプ政権がデカップリング(切り離し)を同盟国に強く迫る中、英国政府は政治的な忠誠をワシントンに誓いつつ、経済的な血管を北京に残すという、極めて難易度の高い「ツートラック外交」を展開している。この戦略の核心は、中国との協力を安全保障上のリスクが低いとされる「非戦略的分野」に限定し、それを「グローバルな公共財」への貢献というナラティブで再包装することにある。

その最たる現場が、グリーンファイナンスと脱炭素技術の領域だ。シティでアジア市場向け債券投資を担当する(仮名)ウィリアムズ・アーサー氏は、その潮流の変化を語る。「2021年に施行された国家安全保障・投資法(NSI法)により、中国のハイテク企業への直接投資は極めて厳格に審査されます。しかし、気候変動対策に関連するインフラ債や特定のグリーンボンドについては、承認が下りるケースがあります。ワシントンも環境問題まで完全に遮断することは、外交的にまだ隙間があるのです」。

しかし、この「隙間」は極めて狭い。英国はAI、量子コンピューティング、半導体といったデュアルユース技術については米国の規制に完全に追随する一方、EVの普及や再生可能エネルギーの供給網においては、中国製のコンポーネントを排除しきれていない。これは、ブレグジット後の英国経済が、これ以上のサプライチェーンの混乱に耐えられないという切実な事情を反映している。ロンドン・スクール・オブ・エドノミクス(LSE)の最近のレポートは、この状況を「経済的必要性と地政学的忠誠心の間の、苦渋の妥協」と表現している。

トランプの監視網:ホワイトハウスからの警告音

ワシントンD.C.のアイゼンハワー行政府ビル(EEOB)の内側で、かつての「特別な関係」は冷ややかな再評価の対象となっている。第2次トランプ政権における国家安全保障会議(NSC)と通商代表部(USTR)は、同盟国の「忠誠心」を測る新たな指標として「対中デカップリングの本気度」を導入した。ヘリテージ財団などの保守系シンクタンクの政策提言が示すように、ワシントンの強硬派は「経済的実利を求めて北京に擦り寄る同盟国は、米国の安全保障の穴(セキュリティ・ホール)である」と断じている。

ワシントンに駐在する日本の商社マン、(仮名) 山本博之 氏は変化を肌で感じている。「以前なら国務省との関係が重要でしたが、今は商務省の産業安全保障局(BIS)やUSTRが、『その製品のサプライチェーンに中国企業が紛れ込んでいないか』と執拗に詰問してきます。彼らは、中国製バッテリーを採用する英国の産業政策を『トロイの木馬』と認定する準備ができています」。

このデータが示す通り、英国は現在、最も危険な領域に位置している。日本の立ち位置も決して安全圏ではない。英国がこの圧力にどう反応し、どのような代償を払うことになるのか。それは、数ヶ月後の日本外交が直面する運命のシミュレーションそのものなのだ。

CPTPPへの波紋:英国の加盟と中国の影

2026年1月、英国の環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)への正式加盟後の調整期間が続いている。ロンドンでは、この加盟が「米中対立の新たな最前線」となりつつあることへの困惑が広がっている。英国の製造業を営む(仮名) アーサー・ペンバートン氏は、「米国からは中国製素材を排除せよと言われ、一方でCPTPPを活用してアジアへ売れと奨励される。しかしアジアの供給網には中国が不可欠だ」と嘆く。

英国の加盟が日本の政策立案者にとって極めて重要なのは、英国が「中国のCPTPP加盟」に対してどのような態度を取るかという点だ。もし、経済的実利を優先して中国の加盟プロセスを支持すれば、日米が主導してきた「高水準のルールに基づく秩序」は内部から崩壊しかねない。トランプ政権のUSTR高官は、非公式の場で「英国が中国のCPTPP入りを後押しするなら、AUKUSを含む軍事技術協力を見直す」と牽制したと報じられている。これは単なる通商交渉を超えた、同盟国に対する露骨な威嚇である。

「踏み絵」を迫られる同盟国:日本の視点

英国の事例は、日本にとって単なる他国の外交遊戯ではない。それは、米中対立という巨大な石臼の間で、同盟国がいかにして国家の生存領域を確保するかという、実存的な実験である。「安保は米国、経済は中国」という二股外交は、2026年の世界ではもはや通用しない。英国の洋上風力発電や次世代通信網への中国企業の関与を巡る攻防は、そのまま日本の明日を映す鏡となる。

英国が試みる「政治的同盟と経済的実利の分離」が破綻した時、同様のジレンマを抱える日本は、より過酷な決断を、より短い時間で迫られることになるだろう。我々が見ているのは、大西洋を挟んだ外交劇ではなく、太平洋の向こう側で待ち受ける自らの運命のリハーサルなのだ。

2026年の教訓:同盟のコストと国益のバランス

2026年、私たちが英国の事例から学ぶべき最大の教訓は、米国との同盟維持コストが、従来の「基地負担や防衛費」という直接的な支出から、「経済的機会損失の受容」という間接的かつ莫大なコストへと変質したという事実である。チャタムハウス(王立国際問題研究所)の分析が示唆するように、ミドルパワーが超大国の対立構造の中で「第三の道」を模索する余地は、急速に狭まりつつある。

私たちは今、冷徹な計算を迫られている。米国という「唯一無二の保険会社」が提示する保険料(=対中デリスキングの徹底)は、果たして日本経済が支払い可能な額なのか。あるいは、リスクを取ってでも独自の生存圏を確保するのか。英国の失敗を他山の石とし、国益と同盟のバランスシートを根本から再設計すること。それが、2026年以降の国際秩序を生き抜くための唯一の処方箋となるだろう。

主要同盟国の対米・対中依存度ギャップ (2025-2026推計)