[越境弾圧] 司法の限界と「見えない戦争」:イラン暗殺未遂事件判決が問いかけるもの
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ブルックリンの法廷で断罪された「影の実行者」
2026年1月、記録的な寒波に見舞われたニューヨーク・ブルックリン連邦地方裁判所。重苦しい静寂の中で、カーライル・リベラ被告(24)に対し、懲役15年の実刑判決が言い渡されました。米国在住のイラン反体制活動家マシ・アリネジャド氏に対する暗殺未遂事件に関与し、殺人請負およびマネーロンダリングの共謀罪を認めた結果です。
連邦検事は、この判決を「米国の主権と個人の自由に対する攻撃への断固たる回答」と位置づけました。確かに、司法の現場において、実行犯を社会から隔離し、相応の罰を与えるというプロセスは完了したと言えるでしょう。しかし、法廷で明らかにされた犯行の詳細は、この「勝利」がいかに限定的なものであるかを逆説的に証明することとなりました。
公判記録によると、リベラ被告はテヘランの革命防衛隊に忠誠を誓ったイデオロギーの信奉者ではありません。彼は単に、金銭のために動く地元の「雇われ銃(hired gun)」に過ぎませんでした。検察側が提示した証拠映像には、彼が標的の自宅周辺を執拗に監視し、その画像をデジタルツールを通じて指示役に送信する様子が記録されていました。彼を突き動かしていたのは、宗教的熱狂ではなく、数千ドル程度の報酬というあまりに即物的な動機です。

弁護側は最終弁論で、リベラ被告が組織の「末端」であり、利用された若者に過ぎないと情状酌量を求めました。この主張は、道義的な責任を免じるものではありませんが、構造的な真実を突いています。リベラ被告が刑務所で過ごすことになる今後15年の間、彼に暗殺を指示し、資金を提供した「黒幕」たちは、テヘランの安全なオフィスで、また別の「リベラ」を探し出すことができるからです。司法の手は、ブルックリンの路上にいた実行犯には届きましたが、暗号化された通信の向こう側にいる首謀者には指一本触れることができていません。
標的とされた「声」:マシ・アリネジャドの闘い
ブルックリンの穏やかな住宅街にある自宅が、もはや安全な「聖域」ではないことは、2022年の夏、カーライル・リベラがライフルを携えて彼女の玄関先を徘徊した瞬間に明白となりました。しかし、イラン出身のジャーナリストであり活動家であるマシ・アリネジャド氏(49)にとって、この脅威は突発的なものではなく、長年にわたる闘争の必然的な帰結であったと言えます。彼女は単なる反体制派の批評家ではありません。テヘランの指導層にとって、彼女はイラン・イスラム共和国の統治の正当性を根底から揺るがす、デジタル時代の最も強力な「武器」そのものだからです。
アリネジャド氏の名を世界的に知らしめたのは、彼女が立ち上げたソーシャルメディア・キャンペーン「My Stealthy Freedom(私の密かな自由)」でした。イラン国内の女性たちが、強制されたヒジャブ(スカーフ)を外し、風に髪をなびかせる姿を自撮りして投稿するこの運動は、瞬く間に数百万人のフォロワーを獲得しました。彼女のSNSアカウントは、閉ざされた国境を越え、抑圧された数百万の市民の声を可視化する巨大なプラットフォームへと変貌を遂げたのです。
専門家は、アリネジャド氏の影響力が「個人の発信」を超え、「集合的な抵抗の象徴」となっている点を指摘します。ワシントンの人権団体による分析によれば、イラン政府が彼女を恐れる最大の理由は、彼女が欧米のメディアに向けて英語で語る能力と、ペルシャ語で国内の若者を動員する能力の両方を兼ね備えている点にあります。事実、2022年のマフサ・アミニさんの死に端を発する大規模な抗議デモにおいて、アリネジャド氏は現地の映像を世界中に拡散させる重要なハブとしての役割を果たしました。
外注されるテロリズム:組織犯罪と国家の癒着
この事件が浮き彫りにしたのは、国家による越境弾圧(Transnational Repression)が、従来の諜報員による直接工作から、現地の犯罪組織を利用した「業務委託型」へと変貌している現実です。司法省の起訴状によれば、イラン側は東欧系の犯罪組織、通称「Thieves-in-Law(法の泥棒)」と呼ばれるネットワークを介してリベラ被告らに接触したとされます。この手法は、情報機関にとって「もっともらしい否認(Plausible Deniability)」を可能にするための幾重ものファイアウォールとして機能します。
元FBI捜査官で、現在はワシントンD.C.で民間のセキュリティ・コンサルタントを務めるタナカ・ケンイチ氏(仮名)は、「国家が地元のギャングを下請けに使うコストパフォーマンスの高さ」を指摘します。
「プロの工作員を敵国に潜入させ、育成し、実行させるコストとリスクに比べれば、現地の犯罪者を数千ドルで雇う方が遥かに効率的です。失敗しても『トカゲの尻尾』を切るだけで済み、本国への政治的ダメージは最小限に抑えられます」
実際、リベラ被告らは標的の自宅周辺を監視し、その様子を撮影して報告するという、あたかもデリバリーサービスの配達員のような感覚で「業務」を遂行していた痕跡が残っています。この「テロリズムのアウトソーシング」は、捜査当局を疲弊させる非対称な戦争です。米当局は、個々の実行犯を特定し逮捕するために膨大なリソースを割かざるを得ませんが、発注元であるイラン当局は、安全な国境の内側から、また別の「求人」を出すだけで済むからです。
日本への警鐘:「見えない脅威」は対岸の火事か
ニューヨーク連邦地方裁判所が下した判決は、米国だけの問題ではありません。このニュースを「対岸の火事」として消費することは、日本にとって致命的な油断となりかねないでしょう。なぜなら、この事件で露呈したのは、特定のイデオロギーや宗教的動機を持たない現地の犯罪者を、外国の諜報機関が「業務委託」のように手足として使うという、極めて現代的かつ防御困難な手口だからです。
これまで日本の安全保障論議における「外国からの脅威」は、主にサイバー攻撃や産業スパイ、あるいは領海侵犯といった国家規模の事象に焦点が当てられてきました。しかし、2026年の現在、脅威はより不可視化し、市民生活の裏側に浸透しつつあります。日本国内でも近年、SNSを通じて実行犯を募る「闇バイト」による強盗や詐欺が社会問題化していますが、もしそのスポンサーが、金銭目的の反社会的勢力ではなく、政治的目的を持った外国の諜報機関であった場合、現在の日本の法執行能力でどこまで未然に防げるでしょうか。
都内で民間セキュリティ企業のアドバイザーを務めるサトウ・ケンタ氏(仮名)は、この「暴力のアウトソーシング」について次のように警鐘を鳴らします。
「かつてのような『スパイ対公安』という構図は過去のものです。現在は、ダークウェブや暗号化アプリを通じて、国境を越えた指示役が、ターゲットの居住国にいる『金で動く無名のアクター』を調達する時代です。彼ら実行犯には政治的背景がないため、公安調査庁や警察の警備公安部門の監視網には引っかかりません」
越境弾圧(Transnational Repression)の報告件数推移 (2021-2025)
日本にとってさらに懸念すべきは、トランプ政権2期目における米国の「内向き」な姿勢です。かつて米国は「世界の警察官」として、こうした越境弾圧に対して同盟国と連携し、外交的圧力をかけるリーダーシップを発揮していました。しかし、「アメリカ・ファースト」を掲げる現政権下では、米本土への直接的脅威でない限り、他国で起きる人権侵害や主権侵害に対する介入のハードルは極めて高くなっています。
結論:国境を超える防衛線の構築に向けて
カーライル・リベラ被告への判決は、法の支配を重んじる国としての意思表示ではありますが、同時に国境を越えて異論を封じ込めようとする権威主義国家に対し、国内法だけでは抑止力として不十分であるという重い課題を突きつけています。物理的な距離と主権の壁に阻まれ、司法の手が届かない「聖域」がテヘランに残る限り、この影の戦争が終わることはありません。
「沈黙させられない権利」を守るための防衛線は、もはや国境線の上にはありません。それは、国際社会が連携して築く「法と規範のネットワーク」の中にこそ存在します。カーライル・リベラへの判決は、その長い戦いの序章に過ぎず、我々はまだ、本当の意味での「黒幕」と対峙するスタートラインに立ったばかりなのです。