[米国インフラ] 司法が引いた「サンクコストの盾」:Vineyard Wind判決と日本企業の対米投資戦略
![[米国インフラ] 司法が引いた「サンクコストの盾」:Vineyard Wind判決と日本企業の対米投資戦略](/images/news/2026-01-28--vineyard-wind-j18lo.png)
マサチューセッツ沖の攻防:95%の既成事実
マサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島の南約15マイル。冬の北大西洋の荒波の中に、高さ260メートルを超える巨大な風力タービン群が整然と立ち並んでいる。米国初の商業規模洋上風力発電所「Vineyard Wind 1」は、2026年1月現在、その建設工程の95%を完了し、一部では既に試験送電を経て地域の電力網への供給を開始していた。しかし、この巨大な「モノづくり」の現場に対し、ワシントンD.C.から放たれた一本のペンの一筆が、物理的な完成を目前にしたプロジェクトを根底から揺るがす事態となった。
事の発端は、第2次トランプ政権が2025年1月の発足直後に署名した、包括的な「国家エネルギー安全保障の見直し」に関する大統領令にある。政権はこの大統領令を根拠として、1年後の2026年1月中旬、突如としてVineyard Windプロジェクトに対し、環境影響評価の再審査と作業の即時停止を命じる執行措置(Enforcement Action)を発動した。「エネルギー・ドミナンス(支配)」と化石燃料産業の復権を掲げる現政権にとって、バイデン前政権の象徴的な遺産である再生可能エネルギープロジェクトは、完成直前であっても容赦のない規制見直しの標的となったのである。現場では、最終段階の送電網接続作業に従事していた作業船が停止を余儀なくされ、数千億円規模の投資が瞬く間に「座礁資産」となるリスクが現実味を帯びた。
これに対し、ボストンの連邦地方裁判所が下した判断は、政治的熱狂とは対照的に、極めて冷徹かつ実務的なものであった。1月28日、ブライアン・マーフィー(Brian Murphy)連邦判事は開発事業者側の申し立てを認め、政権による作業停止命令の効力を一時的に差し止める仮処分を決定した。マーフィー判事が判決文の中で強調したのは、再生可能エネルギーの是非といったイデオロギー論争ではない。「サンクコスト(埋没費用)」という経済的な現実と、既成事実の重みである。

「95%まで完成し、稼働直前にあるインフラを、遡及的な行政判断によって無に帰すことは、公共の利益に資さないばかりか、法的な予見可能性を著しく損なうものである」。司法は、強力な行政権の行使に対し、「経済的合理性」という明確な境界線を引いた形だ。この判断は、物理的に構築されたインフラの存在そのものが、急進的な政策変更に対する「最後の防波堤」として機能し得ることを示唆している。
「具体的脅威」の不在:司法が求めたエビデンス
連邦地方裁判所が下した判断の核心は、トランプ政権が掲げた「国家安全保障上の懸念」という大義名分に対し、極めて冷徹な事実認定(ファクト・ファインディング)を求めた点にある。判決文においてマーフィー判事は、行政庁に対し「具体的かつ差し迫った脅威(concrete and imminent threat)」の立証を繰り返し要求した。政権側は、洋上風力発電施設の建設が沿岸警備隊のレーダー網に干渉し、外国船籍の監視活動に支障をきたす可能性を主張したが、裁判所はこの主張を「推測の域を出ない」と一蹴した。
既に90%以上の建設が進捗しているプロジェクトに対し、過去の環境影響評価(EIS)で解決済みとされた技術的課題を、新たな「安保リスク」として再定義するには、それを裏付ける圧倒的なデータが不可欠であったためだ。
この司法判断は、米国の行政法における「ハード・ルック(徹底的な審査)」の原則が、国家安全保障という聖域においても機能し始めたことを示唆している。かつて司法は、大統領権限が及ぶ安保領域において行政判断を尊重する傾向にあった。しかし、2026年の現在、エネルギー政策が政争の具となる中で、裁判所は「政策変更の正当性」をより厳格に問う姿勢を鮮明にしている。
「サンクコストの盾」:インフラ投資を守る新たな法理
米連邦地方裁判所が下したVineyard Wind 1の操業継続を認める判決は、単なる一プロジェクトの救済にとどまらず、トランプ政権下のインフラ投資における「不確実性」に対する強力な防波堤を築くものとなった。判決文において特筆すべきは、判事が「物理的な進捗率」を法的保護の主要な根拠として採用した点である。建設工程の95%が完了し、すでに送電網への接続テストが開始されている現状において、大統領令に基づく事後的な許可取り消しは「経済的合理性を著しく欠く」と断じられた。
この司法判断が生み出した概念は、ワシントンの法律専門家やウォール街のアナリストの間で「サンクコストの盾」と呼ばれ始めている。これまでの環境訴訟や許認可紛争では、環境影響評価の整合性や手続き上の瑕疵が主な争点であった。しかし、今回の判決は「資本の不可逆性」に焦点を当てた点で画期的である。すでに40億ドル(約5800億円)規模の民間資本が投下され、その多くが洋上の風車や海底ケーブルとして物理的に固定されている場合、行政の裁量権は大幅に制限されるという新たな法理が確立されつつあるのだ。
大手法律事務所で数多くのクロスボーダー・インフラ案件を手掛ける佐藤健太氏(在ニューヨーク邦銀アナリスト、仮名)は、次のように分析する。「この判決は、プロジェクトファイナンスにおける『政治的不可抗力』のリスク評価を一変させる可能性があります。従来、カントリーリスクの一部として処理されていた政権交代による政策変更リスクが、ある一定の進捗ラインを超えれば司法によってヘッジ可能であることが示されました。これは、現在テキサスやルイジアナでLNGプロジェクトへの参画を進める日本企業にとっても、『建設を早期に進め、物理的な実績を作ること』自体が最強の法的防衛策になるという教訓を与えています」

トランプ 2.0 のエネルギー戦争:化石燃料回帰への執念
しかし、この「盾」は万能ではないことにも留意が必要だ。判決はあくまで、すでに「ポイント・オブ・ノー・リターン(後戻りできない地点)」を越えたプロジェクトに限定して保護を与えたに過ぎない。計画段階や初期着工段階にあるプロジェクトに対しては、トランプ政権の持つ規制撤廃や許可凍結の権限は依然として強大であり、司法も行政の裁量を広く認める傾向にある。
2026年の現在、ホワイトハウスの執務室から発せられるメッセージは極めて明確だ。「ドリル、ベイビー、ドリル(掘って、掘って、掘りまくれ)」のスローガンは、単なる選挙戦の熱狂的なレトリックから、緻密に計算された行政命令へと姿を変え、連邦政府のあらゆる機関を再編する指針として機能している。第2次トランプ政権が発足した2025年1月以降、エネルギー政策の振り子は劇的に、そして暴力的なまでの速度で「化石燃料回帰」へと振れた。
米国連邦政府によるエネルギープロジェクト許認可件数の推移 (2023-2025)
この「エネルギー戦争」の最前線において、政権側が採用した戦術は、許認可権限の武器化である。内務省海洋エネルギー管理局(BOEM)や環境保護庁(EPA)の主要ポストには、化石燃料業界に近い人物が相次いで登用され、再生可能エネルギープロジェクトに対する環境アセスメントの基準が、皮肉なことに厳格化された。かつて環境保護団体が開発阻止のために用いた「絶滅危惧種への影響」や「景観保護」といった論理が、今度は洋上風力発電を座礁させるための行政上の口実として利用されているのである。
日本企業への警告:対米投資リスクの再評価
Vineyard Windに対する連邦裁判所の差し止め解除命令は、三菱商事や三井物産、住友商事といった、米国のエネルギーインフラに巨額を投じている日本の総合商社や重電メーカーにとって、一見すると「法の支配」の勝利であり、安堵をもたらすニュースに映るかもしれない。しかし、この司法判断を対米投資の安全宣言と捉えるのは早計であり、むしろ新たな、より不可視的なリスクの始まりを示唆していると捉えるべきである。
「司法が防波堤になったといっても、それはあくまで『契約の破棄』という最悪の事態を防いだに過ぎません」。米国北東部での再生可能エネルギー開発プロジェクトに参画する大手商社のプロジェクトマネージャー、佐藤氏(52)は、現地からのオンライン取材に対し、硬い表情でそう語る。佐藤氏の懸念は、トランプ政権(第2期)が司法による制約を受けた後、戦術を「法的権限による中止」から「行政手続きによる遅延(Slow-walking)」へとシフトさせる可能性にある。
米国インフラ投資における日本企業の認識するリスク要因 (2026年調査)
実際に、ワシントンの政策専門家たちの間では、政権が環境保護庁(EPA)や内務省(DOI)などの許認可権限を「武器化」するシナリオが現実味を帯びて語られている。連邦裁判所が大統領令による直接的なプロジェクト中止を違法としたとしても、環境影響評価の再審査、安全基準の厳格化、あるいは許認可担当官の人員削減による事務処理の停滞といった「行政的裁量」の範囲内で行われる妨害工作に対し、司法が即座に介入することは極めて困難だ。
結論:司法vs行政の長期戦とエネルギー転換の行方
マサチューセッツ州沖で建設が進むVineyard Windの再開を命じた連邦裁判所の決定は、一見すると再生可能エネルギー産業の勝利に見えるかもしれない。しかし、ワシントンの法律家やウォール街のエネルギーアナリストたちの間では、これを「長い消耗戦の始まり」と捉える見方が支配的だ。今回の司法判断は、トランプ政権による大統領権限の行使に対し、「サンクコスト(埋没費用)」という経済的合理性の観点から明確な境界線を引いたに過ぎない。
日本の商社やエネルギー企業にとっても、この新たな現実は重い意味を持つ。かつて米国のカントリーリスクは、政策の変更に伴う「規制リスク」が主であった。しかし今後は、行政と司法の対立が常態化する中での「訴訟リスク」と、プロジェクトの進捗度合いそのものが法的保護の要件となる「時間との戦い」が加わることになる。
結局のところ、米国のエネルギー転換は停止することはないだろうが、その速度は著しく鈍化せざるを得ない。かつてのような政府主導の「グリーン・ニューディール」的なスプリント(短距離走)は終わりを告げ、これからは司法という防波堤に守られながら、行政の妨害をかいくぐって進む、過酷な障害物競走へとその姿を変えていく。