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[米国司法] 「サンクコストの盾」の衝撃:トランプ政権の風力発電停止を阻んだ95%の既成事実

AI News Team
[米国司法] 「サンクコストの盾」の衝撃:トランプ政権の風力発電停止を阻んだ95%の既成事実
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マサチューセッツ沖の逆転劇:なぜ建設は再開されたのか

2025年12月、クリスマス休暇を目前に控えたマサチューセッツ州ニューベッドフォードの港湾都市に、冷ややかな衝撃が走った。トランプ政権(第2期)の内務省安全環境執行局(BSEE)が、米国初の商用規模洋上風力発電プロジェクト「ヴィンヤード・ウィンド(Vineyard Wind)」に対し、突如として無期限の作業停止命令(Stop Work Order)を発出したためである。

その理由は「国家安全保障上の懸念」であった。具体的には、建設海域におけるタービン群が、沿岸警備隊の捜索救助レーダーおよび軍用監視レーダーに干渉するリスクがあるという主張だ。トランプ大統領が選挙期間中から繰り返してきた「風力発電は鳥を殺し、景観を破壊し、軍事作戦を妨害する」というレトリックが、就任1年目の終わりに具体的な行政処分として具現化した瞬間であった。

しかし、2026年1月29日現在、ニューベッドフォード沖では巨大なブレードが再び回転を始めている。この「逆転劇」の背景には、連邦地方裁判所のブライアン・E・マーフィー判事(Judge Brian E. Murphy)が下した、ある決定的な法的論理が存在した。それは、プロジェクトの進捗率そのものが最強の防御壁となる「既成事実の法理」である。

圧倒的な「物理的事実」の重み

法廷でヴィンヤード・ウィンド側が提示したデータは圧倒的であった。計画されていたタービンの95%以上がすでに海底に固定され、送電ケーブルの敷設も完了段階にあったのである。弁護団は、「現在進行形の建設を停止したとしても、すでに設置された構造物によるレーダー干渉(もし存在するならば)は除去できない。したがって、停止命令は安全保障上の利益を生まない一方で、事業者には破滅的な経済的損失(Irreparable Harm)を与える」と主張した。

これに対し、司法省(DOJ)の弁護団は、残り5%の建設が「リスクを不可逆的なレベルに押し上げる」と反論したが、その根拠となる具体的な技術データは、法廷が求める立証責任のレベルには達していなかった。

マーフィー判事の裁定は明快であった。「行政権の行使は尊重されるべきだが、それは合理的根拠に基づかねばならない。95%完成したインフラに対し、根拠の薄い懸念で停止を命じることは、裁量権の濫用(Arbitrary and Capricious)に当たる」。判事は、すでに投下された巨額の資本(サンクコスト)と、物理的に存在するインフラの事実を重く見たのである。

「サンクコストの盾」:司法が認めた投資保護の論理

マサチューセッツ連邦地方裁判所の法廷で1月下旬に示された判断は、トランプ政権2年目のエネルギー政策における司法の防波堤として、米国の法律家のみならず、日本の商社やエネルギー開発事業者の注目を集めている。マーフィー判事は、連邦政府による作業停止命令に対し、その効力を一時停止する仮処分決定を下した。この判決文の行間には、ポピュリズム的な行政権の行使に対し、司法が「サンクコスト(埋没費用)」を実質的な財産権の一部として保護するという、極めて現実的なロジックが刻まれている。

ここでの重要な争点は、行政による許認可の取消権限と、私企業の信頼保護のバランスである。トランプ政権側は、大統領権限の強化を背景に、過去の許認可であっても安全保障上のリスクがあれば事後的に無効化できると主張した。しかし、司法はこの主張を退けた。ワシントンの法律事務所でインフラ規制を担当するジェームズ・カーター弁護士(仮名)は、「今回の判決は、プロジェクトが『不可逆点(Point of No Return)』を越えれば、たとえ大統領令であっても容易には覆せないという判例を作った」と分析する。

Vineyard Wind プロジェクト進捗と投資リスクの相関(2024-2026)

本来、サンクコストは経済学的には「意思決定において無視すべき費用」とされる。しかし、高度に政治化された現代の米国ビジネス環境においては、その巨額のサンクコストこそが、司法を味方につけ、行政の恣意的な介入を跳ね返す「盾」へと変貌した。このパラダイムシフトを理解しないまま、従来のコンプライアンス感覚で対米事業を進めることは、あまりに危険である。

国家安全保障という「切り札」の限界

トランプ政権が発足して2年目を迎えた現在、ホワイトハウスが振りかざす「国家安全保障」という伝家の宝刀は、かつてないほど頻繁に、そして恣意的に抜かれるようになった。前政権時代のグリーンニューディール政策を解体し、化石燃料への回帰と保護貿易を推進するため、政権は外国資本が関与するインフラ事業に対し、安全保障上のリスクを理由とした介入を繰り返している。

しかし、マーフィー判事が下した判断は、冷徹なまでの経済合理性に基づいていた。判決文において特筆すべきは、裁判所が政府の主張する「国家安全保障上の懸念」を否定したわけではないという点だ。むしろ、司法は行政の裁量を尊重する伝統的な姿勢を保ちつつも、それを上回る「圧倒的な既成事実」の重みを天秤にかけたのである。

ワシントンD.C.に拠点を置く大手法律事務所で、日系企業のインフラ投資顧問を務める鈴木一郎氏(仮名)は、この判決の波紋について次のように分析する。「トランプ政権下では、許認可プロセスが政治的な武器として使われるリスクが常にある。しかし、マーフィー判決が示したのは、プロジェクトが『引き返せない地点』を超えてしまえば、司法は現状変更(中止)を躊躇するということだ。これは、日本企業に対して『石橋を叩く前に渡り切れ』と示唆しているに等しい」

日本企業への教訓:不確実性時代の対米投資戦略

ヴィンヤード・ウィンド訴訟が日本の産業界、とりわけ総合商社やエネルギー開発企業に突きつけた現実は冷徹だ。この司法判断は、第2次トランプ政権下における対米投資の新たなリスクヘッジ戦略を示唆している。これまでの日本企業の常識であった「石橋を叩いて渡る」慎重なプロセス管理は、政策変更リスクが極大化する現在の米国においては、むしろ致命的な弱点となり得るのだ。

「根回し」よりも「杭打ち」の速度

日本のビジネス慣習において、合意形成(根回し)と完璧な設計図の完成は着工の絶対条件とされる。しかし、今回の判決文を読み解くと、米国の司法システムが「回復不能な損害(Irreparable Harm)」を認定する際、投下された資本(サンクコスト)の規模と、物理的な進捗状況を決定的な要素として重視していることがわかる。

現在、為替相場は1ドル155円前後(2026年1月時点)で推移しており、日本企業にとってドル建ての先行投資は財務的な痛みを伴う。しかし、トランプ政権2年目の現在、エネルギー政策や環境規制は「可変的な変数」と化している。この不確実性の中で資産を守るためには、初期段階でリソースを集中投下し、法的に後戻りできないポイントまでプロジェクトを一気に押し進める「垂直立ち上げ」こそが、最も合理的な保険料となる。

プロジェクト進捗率と司法による事業継続容認の相関(概念図)

2026年の米国ビジネスにおいて、法務と現場はかつてないほど密接な連携を求められている。現場が打つ一本一本の杭が、そのまま法廷での防御証拠となる時代において、日本企業は「慎重さ」の定義を「決断の遅さ」から「実行の速さ」へと書き換えなければならない。