ECONALK.
Global Affairs

[組織ガバナンス] 英国国教会「処分なし」の波紋――ヨーク大主教の判断ミスと失われた信頼

AI News Team
[組織ガバナンス] 英国国教会「処分なし」の波紋――ヨーク大主教の判断ミスと失われた信頼
Aa

英国国教会(Church of England)を揺るがせた長年の虐待隠蔽疑惑において、ひとつの司法的な区切りが打たれた。独立審査官である元高等法院判事、スティーブン・メールズ卿(Sir Stephen Males)は、ヨーク大主教スティーブン・コットレル氏に対する調査報告書を提出し、故デイビッド・チューダー元牧師による虐待事件への対応において、コットレル氏に「不正行為(misconduct)の事実は認められない」とする結論を下した。

これにより、教会法上の懲戒手続きに進む根拠となる「答えるべき事案(case to answer)」は存在しないことが法的に確定した。しかし、この裁定はコットレル氏の法的潔白を証明したものの、同時に組織としてのリーダーシップに対する深刻な疑念を浮き彫りにすることとなった。

「法的潔白」と「判断ミス」の境界線

この裁定は、ジャスティン・ウェルビー前カンタベリー大主教の辞任以降、不安定な情勢が続く教会指導部にとって、形式上は重要な防波堤となる。メールズ卿は、コットレル氏が過去のファイルを意図的に無視したわけではなく、組織的な隠蔽工作に加担した証拠もないと断定した。法的な観点、あるいは組織のコンプライアンス規定の厳密な解釈に照らし合わせれば、この決定は「シロ」であり、彼の地位を脅かす直接的な法的脅威は去ったと言える。

しかし、この「処分なし」という結論の行間には、看過できない重い指摘が記されている。報告書は、コットレル氏の行動に明確な「判断ミス(errors of judgment)」があったことを認めているのである。具体的には、過去の時点で関連記録を詳細に精査せず、結果としてより迅速かつ適切な対応を取る機会を逸した点が挙げられる。メールズ卿はこれらを「遺憾ではあるが、解任や懲戒に相当する不正行為の閾値を超えるものではない」と位置づけた。

ガバナンス不全と被害者の絶望

日本の企業ガバナンスにおける法的責任と経営責任の乖離議論にも似たこの構図は、組織の論理と被害者感情の間に深い溝を生じさせている。法的な不正がなかったとしても、組織のナンバー2としての「注意不足」や、危機管理における「感度の鈍さ」が公的報告書によって認定された事実は重い。

今回の裁定が発表された瞬間、長年にわたり教会内での虐待被害を訴え続けてきたサバイバー(被害者)団体の間に広がったのは、安堵ではなく、深く静かな絶望であった。被害者支援団体の代表は、「判断の誤りという言葉は、組織のトップに立つ人間に求められる責任の重さと釣り合っていない。これは実質的な免罪符であり、教会が自浄作用を持たないことを改めて証明してしまった」と厳しく指摘する。

特に、「手続き上の正当性」が「道義的責任」を覆い隠してしまったという批判は深刻だ。組織論の観点から見れば、トップの「判断ミス」が処分対象とならない前例を作ることは、将来的なコンプライアンス遵守のハードルを下げるリスクを孕んでいる。被害者たちが求めていたのは、単なる処罰ではなく、組織として過去の過ちを真摯に認め、再発防止へと舵を切るという明確なメッセージであった。

2026年の視点:組織防衛の論理と「安心」の崩壊

2026年現在、トランプ政権2期目の影響下で世界的に権威ある機関への不信感が高まる中、英国国教会の対応は現代の巨大組織が抱える構造的なジレンマを象徴している。ヨーク大主教に対する「処分なし」という裁定は、法的な潔白(Legal Innocence)と組織としての信頼性(Institutional Trust)が必ずしも同義ではないことを突きつけている。

これは、日本の企業不祥事における第三者委員会の報告書でも散見される論理と酷似している。「コンプライアンス上の重大な違反はないが、ガバナンス上の課題が残る」として、組織の防衛線を「違法か否か」という最低限の基準に引く。その結果、被害者の痛みや信徒の不信感といった、数値化できない倫理的責任は手続きの彼方へと追いやられてしまう。

現代のリーダーシップにおいて、「判断ミス」は致命傷になり得る。特に、弱者の保護(セーフガーディング)という最もデリケートな領域でのミスは、能力の問題ではなく、資質の問題として受け取られる。法的なクリアランスを得たとしても、一度損なわれた「徳」による権威を回復するには、途方もない時間と誠実な行動が必要となる。この裁定は、組織を守るための論理が、皮肉にも組織の魂を空洞化させるという、現代ガバナンスの教訓を私たちに提示している。