[国際情勢] シリア・クルドの「国家回帰」:米国不在の世界で消えゆくロジャヴァの夢
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砂漠に響く「玉砕」の誓いと冷徹な現実
シリア北東部、ハサカ県の乾いた大地に吹き付ける風は、かつてないほど冷たく感じられる。2026年1月下旬、シリア民主軍(SDF)の前線基地では、依然として「Berxwedan Jiyan e(抵抗こそが命)」というスローガンが掲げられている。しかし、その勇ましい言葉とは裏腹に、現地の空気は重苦しい静寂に包まれている。ここで進行しているのは、劇的な戦闘による決着ではなく、静かなる「国家への回帰」という冷徹なプロセスである。
トランプ政権(第2期)による「終わりのない戦争」からの完全撤退方針が決定的となった今、SDFの兵士たちは二重の現実に直面している。一方では、北から迫るトルコ軍の脅威に対し「最後の一兵まで戦う」という悲壮な決意を固め、塹壕を掘り続けている。しかし、もう一方の現実――政治的指導部がダマスカスのアサド政権と交わした「軍事・行政の統合合意」――は、彼らが守ろうとした「ロジャヴァ(自主管理区)」という夢の事実上の解体を意味している。

現地で取材を続けるフリージャーナリストの山本健一氏(仮名)は、この矛盾を肌で感じている。「兵士たちの士気は高いが、その眼にはある種の諦念が宿っている。彼らは自分たちの戦いが、独立のためではなく、シリア政府軍の一部として生き残るための『就職活動』に変わってしまったことを理解し始めている」と山本氏は語る。彼が目撃したのは、SDFの黄色い旗の隣に、かつて敵対視していたシリア政府の二ツ星の国旗が静かに、しかし確実に増えていく光景だ。
この「統合」は、決して対等な合併ではない。中東情勢に詳しい専門家は、これを「吸収合併」と表現する。米国という後ろ盾を失ったクルド人勢力にとって、トルコの越境攻撃から身を守る唯一の手段は、ロシアの後ろ盾を持つアサド政権の主権下に復帰することであった。ワシントンの政策変更が、遠く離れた砂漠の民の運命を一夜にして書き換えたのである。
SDFのマズルウム・アブディ司令官は、公には自治権の維持を主張し続けているが、ダマスカスとの交渉の実態は、国防省傘下の部隊としての再編受け入れである。これは、過去10年間にわたり彼らが築き上げてきた、ジェンダー平等や多民族共存を掲げた社会実験の終わりを示唆している。
日本にとって、この光景は決して「対岸の火事」ではない。同盟国の駐留縮小や撤退が、地域勢力の生存戦略をどう変え、どういう結末をもたらすかという生々しい実例だからだ。「自分たちの国を自分で守る」という覚悟と、大国の論理に翻弄される現実の狭間で、クルド人勢力は今、歴史的な転換点を迎えている。
トランプ2.0と「見捨てられた同盟」
かつて「イスラム国(IS)」掃討作戦で1万1000人以上の死傷者を出し、西側諸国の「地上部隊」として血を流したシリア民主軍(SDF)。その司令官たちが現在、ダマスカスのアサド政権との交渉テーブルに着かざるを得ない状況に追い込まれている背景には、2026年に入り鮮明となったトランプ政権の冷徹な「コスト対効果」外交がある。
ワシントンでは、もはや中東における「道義的責任」や「人権保護」といった言葉は、政策決定の変数として機能していない。第2次トランプ政権が掲げる「アメリカ・ファースト」は、第1期のような衝動的な孤立主義ではなく、より計算され、体系化された「同盟の選別」として実行されている。ホワイトハウスにとって、シリア北東部に駐留する米軍部隊は、対中国戦略にリソースを集中させる上で「整理すべき負債」と見なされたのだ。
「我々はパートナーであって、傭兵ではないはずだった」。カミシリのSDF関係者は、現地の取材に対しそう無念さを滲ませる。しかし、トランプ大統領にとっての同盟とは、常に取引(ディール)であり、米国益に直結しない防衛コミットメントは即座に見直しの対象となる。2025年後半から加速した米軍の段階的縮小と、それに伴うトルコ軍の越境攻撃の脅威は、クルド人勢力に対し、これ以上ない明確なメッセージを送っていた。「米国の盾はもう存在しない」という通告である。

SDFが直面した選択肢は残酷な二者択一だった。トルコ軍による壊滅的な攻撃を受け入れるか、それともかつての敵であり、長年対立してきたアサド政権の軍門に下り、国家主権の傘下に入ることで生存を図るか。彼らが選んだのは、苦渋の「国家への回帰」だった。これは単なる軍事的な統合ではない。数百万人の人々が夢見た「ロジャヴァ」という独自の民主的自治実験が、国際政治の冷厳な力学によって解体される瞬間である。
1月27日の転換点:ダマスカスへの帰還
2026年1月27日、ダマスカスの大統領府で行われた署名式は、中東における「米国による平和(Pax Americana)」の完全なる終焉と、地域秩序の冷徹な回帰を象徴する光景となった。シリア民主軍(SDF)のマズルウム・アブディ司令官と、シリア政府の情報機関トップであるアリ・マムルーク国家安全保障局長が交わした握手は、かつて西側諸国が称賛した「ロジャヴァ(北・東シリア自治行政)」という政治実験が、事実上の解体を迎えたことを意味している。ロシアの仲介により成立したこの合意は、表面上は「統合」と称されているが、その実態は、米軍の後ろ盾を失ったクルド勢力が、北から迫るトルコ軍の脅威を回避するために選択した、アサド政権への「生存のための吸収合併」に他ならない。
合意文書の詳細は非公開とされているが、現地取材およびロシア外務省筋からの情報を総合すると、その骨子は「軍事構造の溶解」と「資源管理権の返還」にある。SDFは組織としての独立性を放棄し、シリア政府軍の第5軍団(突撃軍団)傘下の特別部隊として再編される。これまでSDFが独自に維持してきた指揮系統はダマスカスの参謀本部に統合され、カミシリやハサカといった主要都市の検問所には、クルドの三色旗に代わり、シリア・アラブ共和国の二ツ星の国旗が掲げられることとなった。
経済的な側面においても、この合意はロジャヴァの自立基盤を根こそぎ奪うものとなった。自治政府の主要な収入源であったデリゾール県などの油田地帯は、国営石油会社による管理下に戻される。合意には、石油収益の約20%を地元インフラ整備に還元するという条項が含まれているものの、残る80%はダマスカスの中央政府へと吸い上げられる。長引く内戦と経済制裁で疲弊したシリア政府にとって、この資源回収こそが悲願であり、クルド側にはそれを拒否する交渉カードは残されていなかった。
現場の亀裂:理想と生存の狭間で
シリア北東部、カミシリ(Qamishli)。かつて「ロジャヴァ」として知られたこの地域は、今、静寂と喧騒が入り混じる奇妙な空気に包まれている。トランプ政権による米軍の完全撤退方針が確定的となった2026年1月、クルド人民防衛隊(YPG)を中核とするシリア民主軍(SDF)の司令部は、ダマスカス(アサド政権)との統合交渉を加速させている。しかし、表向きの「国家的和解」というスローガンの裏で、現場には修復不可能な亀裂が走っている。
「私たちが流した血は、シリア軍の階級章一つと引き換えにするためのものだったのか」。カミシリ市内の検問所で警備にあたるアザド・カリム氏(仮名)は、力なく笑った。34歳の彼は、ISISとの激戦で兄を失い、自らも左足に古傷を抱える。カリム氏のような現場の兵士たちにとって、SDFの上層部が模索する「軍団としてのシリア軍への編入」は、単なる組織再編ではなく、アイデンティティの喪失を意味する。アサド政権下でクルド語の使用や文化的独自性が再び抑圧されることへの恐怖は、トルコ軍のドローン攻撃への恐怖と同じくらい深く、彼らの心に刻まれている。
現地からの報告によれば、SDF内部では「徹底抗戦」を叫ぶ若手将校グループと、生存のために政権への服従をやむなしとする古参幹部との間で意見の対立が先鋭化している。マズルーム・アブディ司令官は対外的には「地域の自治を守るための最後の抵抗」を誓っているが、ダマスカス側が提示している条件は事実上の「無条件降伏」に近い。ワシントンの後ろ盾を失った今、SDFには交渉のカードが残されていないのが現実だ。
「自律」の終焉がアジアに示唆するもの
シリア北東部、ロジャヴァから届く悲痛な報告は、遠く離れたアジアの安全保障コミュニティに冷ややかな衝撃を与えている。これは単なる地域紛争の終幕ではない。2026年のトランプ政権下において、同盟やパートナーシップがいかに脆く、かつ取引可能なものに変質したかを世界に示す「リトマス試験紙」であるからだ。
「かつて我々は、クルドの戦士たちを『中東で最も信頼できるパートナー』と呼んだ。しかし今、ワシントンでその言葉を口にする者はいない」。米国の外交政策に詳しい佐藤健太氏(仮名)は、東京のシンクタンクでの非公開会合でそう語った。佐藤氏の指摘通り、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策は、第2期に入りその孤立主義的傾向を鮮明にしている。国益に直結しない、あるいはコストに見合わないと判断されたコミットメントは、瞬く間に切り捨てられる。
この「ロジャヴァの教訓」は、台湾海峡や朝鮮半島、そして尖閣諸島を抱える東アジアにとって、極めて重い意味を持つ。これまで日本の防衛論議は、日米安全保障条約という「不磨の大典」を前提に組み立てられてきた。しかし、クルド人勢力の運命は、条約上の義務がないパートナー(SDF)と、条約同盟国(日本や韓国)との間に、米国がどれほどの明確な境界線を引いているのかという疑念を突きつける。
防衛省関係者である田中蓮氏(仮名)は、この事態を「戦略的自律への強制的な覚醒」と表現する。「SDFがダマスカスへの統合、つまりかつての敵対者への服従を選ばざるを得なかったのは、自前の生存能力を持たなかったからだ。日本にとっての『ダマスカス』とは何か。それは中国への政治的妥協かもしれないし、核武装を含む極端な自律路線かもしれない。いずれにせよ、米国の傘だけに依存する時代の終わりを、シリアの荒野は告げている」。

結論:ロジャヴァの残響と新たな中東秩序
シリア北東部、かつて「ロジャヴァ」として知られた地域の行政中心地カミシリでは、いま静かな、しかし不可逆的な変化が進行している。街頭から、黄色と緑を基調としたクルド人民防衛隊(YPG)の旗が徐々に姿を消し、その代わりにシリア・アラブ共和国の二つ星の国旗が翻り始めている。これは単なる支配者の交代ではない。2011年の内戦勃発から15年、中東を席巻した「国家なき民主主義」という壮大な実験が、2026年の冷厳な国際政治の現実の前に幕を下ろそうとしている瞬間である。
この地政学的変動は、中東におけるパワーバランスの決定的な転換点を示している。米国が去った「権力の空白」を埋めたのは、リベラルな民主主義の輸出者ではなく、ロシア、イラン、そしてアサド政権という権威主義的な「現状維持勢力」であった。彼らにとっての秩序とは、個人の自由や民族自決ではなく、強力な中央集権による安定である。
日本にとって、この中東の「新しい現実」は、自主防衛と多角的な外交戦略の必要性を、かつてない切実さで問いかけている。ロジャヴァという実験が残した残響は、国際秩序が「価値の共有」から「剥き出しの国益」へと回帰した世界で、いかに生き残るべきかという、すべての同盟国への警鐘なのである。