[英国自動車産業] 73年ぶり低水準からの回復とEV転換の代償—2026年の現在地
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2025年4月の衝撃:統計が語る「一時停止」
英自動車工業会(SMMT)が2025年春に発表した数字は、英国製造業の心臓部が一時的に停止したかのような静寂を伝えていた。2025年4月の英国自動車生産台数は、前年同月比で25%を超える急落を記録し、第二次世界大戦後の混乱期以来、実に73年ぶりの低水準へと落ち込んだ。この衝撃的なデータは、当時、タブロイド紙の見出しを「英国車の死」といった悲観的な言葉で埋め尽くさせたが、現場の実態は、死ではなく、生存をかけた「外科手術」の最中だったと言える。
この歴史的な減産の主因は、需要の蒸発ではなく、供給側の構造的な断絶にあった。日産自動車のサンダーランド工場や、BMW傘下のMINIオックスフォード工場など、英国を代表する主要拠点が、次世代電気自動車(EV)向けラインへの切り替えのために相次いで操業を停止、あるいは大幅に縮小した時期と重なったためである。既存の内燃機関車(ICE)の生産を絞り、バッテリー組立ラインや新たな塗装工程を導入するための物理的な「空白期間」が、統計上の崖となって表れた。
英国自動車生産台数の推移:EV転換による一時的急落 (出典: SMMTデータに基づく推計)
SMMTのマイク・ホーズ最高経営責任者(CEO)が当時、「これは衰退ではなく、将来の成長を確保するための移行期間である」と繰り返し強調したように、この現象は計画されたものであった。しかし、サプライチェーンの現場において、この「計画された停止」は決して穏やかなものではなかった。
バーミンガム近郊で部品加工工場を営む(仮名) 鈴木健一 氏(日系サプライヤー現地法人代表)は、当時の状況を「呼吸を止められたような数ヶ月間だった」と振り返る。完成車メーカーからの発注がストップする一方で、設備維持費や人件費は発生し続け、さらにEV部品への対応投資も求められるという三重苦が、多くの中小サプライヤーを襲った。統計上の「一時停止」の裏側では、キャッシュフローの悪化に耐えきれず、事業転換や廃業を余儀なくされたティア2、ティア3の企業も少なくない。
2026年1月現在、主要工場の改修は完了し、ラインは再び動き出している。しかし、2025年の「空白」が残した傷跡は深く、再稼働した工場の生産能力が以前の水準に戻りつつある一方で、その間に中国メーカーをはじめとする競合他社が英国および欧州市場でのシェアをどれだけ浸食したかという、新たな現実が突きつけられている。

工場再稼働の現在:EVライン転換の代償
2026年の幕開けとともに、英国の主要な自動車工場には再び機械の稼働音が響き渡り始めている。2025年に記録した「1956年以来の低水準」という衝撃的な生産台数の落ち込みは、確かに統計上の底であったとの見方が大勢を占める。しかし、その現場で起きているのは、かつてのようなフル稼働によるV字回復の歓喜ではない。むしろ、EV(電気自動車)専用ラインへの転換を終えた製造現場が直面しているのは、新たな「産みの苦しみ」とも言える調整局面である。
英国自動車工業会(SMMT)が示す最新のデータは、この複雑な状況を如実に物語っている。主要メーカーが相次いで工場の改修工事を完了させたことで、2026年1月の生産能力自体は物理的に回復した。日産自動車のサンダーランド工場や、BMWグループのMINIオックスフォード工場では、次世代EVモデルの試作から量産への移行プロセスが進行中だ。しかし、実際の生産ラインの稼働率は、改修前の水準には戻っていない。これは、設備の問題というよりも、EV市場の需要変動と、トランプ政権下の米国市場における関税リスクを見越した「慎重な立ち上がり」を選択している結果と言える。
「ラインは動いているが、リズムが違う」と語るのは、英中部で日系サプライヤーの現地法人に勤務する(仮名) 佐藤健太 氏だ。エンジン車の部品供給から、バッテリーパックの冷却システム等のEV向け部品へと主力製品をシフトさせた佐藤氏の工場では、発注のロットサイズが以前よりも小刻みになり、在庫管理の難易度が増しているという。「以前のような『作れば売れる』という前提は消えた。完成車メーカーは、欧州域内のEV需要の冷え込みを見ながら、週単位で生産計画を調整しているように見える」と佐藤氏は指摘する。
再稼働した工場が直面している「代償」の一つは、生産効率のパラドックスだ。最新鋭の自動化設備とロボットを導入したEVラインは、理論上の生産タクトタイムを短縮可能にしたが、バッテリーの供給制約や、熟練工による新たな工程への習熟期間が必要となり、実質的なスループット(処理能力)は抑制されている。
さらに、2026年の地政学的状況がこの再稼働に影を落とす。トランプ米大統領による「アメリカ・ファースト」政策の再燃は、英国製自動車の主要輸出先の一つである米国市場へのアクセスに不透明感をもたらしている。英国政府はEUとの間で原産地規則の適用猶予延長を取り付けたものの、対米輸出における関税障壁の懸念は、メーカーに対して英国工場への追加投資や増産判断を躊躇させる要因となっている。
英国自動車生産台数の推移と2026年予測 (出典: SMMTデータを基に推計)
上のグラフが示す通り、2026年の生産台数は底打ち反転が見込まれるものの、その回復カーブは緩やかであり、ブレグジット以前の2016年水準(約172万台)には遠く及ばない。これは「失われた10年」の延長線上にあるのか、それとも高付加価値なEV生産拠点としての「筋肉質な再出発」なのか。現時点での評価は、生産台数という「量」の回復よりも、一台あたりの収益性という「質」の転換が成功するかどうかにかかっている。
英国市場を席巻する「見えざる手」と新たな支配者
かつて「世界の工場」と呼ばれた英国の自動車産業が、2025年に記録した「73年ぶりの生産低水準」という数字は、単なる統計上の落ち込み以上の意味を持つ。それは、英国の工場がEV転換のためにラインを止めていた「空白の1年」に、市場の勢力図が不可逆的に書き換えられたことを示唆しているからだ。
ロンドン近郊の港湾物流企業に勤務する(仮名) 山田 健一 氏は、この1年間の変化を現場で肌で感じてきた。「2025年の初頭から、積み下ろされる新車の風景が一変しました。以前ならサンダーランドやソリハルから出荷されるはずの国産車スペースが空き、そこを埋め尽くしたのは、上海や深センから到着したばかりのEVでした」と山田氏は証言する。彼が目撃したのは、国内生産が停滞した隙間を「見えざる手」——すなわち、消費者の購買力と供給の論理——が、安価で即納可能な輸入車で埋め尽くしていくプロセスそのものであった。
英国自動車工業会(SMMT)のデータが示す通り、2025年の英国国内生産台数は歴史的な低水準に沈んだが、新車登録台数自体は堅調な需要を維持した。この「生産と需要の乖離」こそが、中国系メーカーにとっての千載一遇の好機となった。MG(上海汽車傘下)やBYDといったブランドは、英国の伝統的なメーカーが工場の電動化改修に追われている間に、積極的な価格戦略と在庫供給力でシェアを拡大した。
2026年に入り、日産のサンダーランド工場やBMWのミニ・オックスフォード工場が次世代EVの生産を本格化させている。しかし、再稼働したラインが直面しているのは、もはやかつてのような「自国ブランド優先」の市場ではない。一度流出した顧客を取り戻すためのマーケティングコストは膨大であり、加えてトランプ政権による米国市場の保護主義的な動きが、余剰となった中国製EVの欧州・英国市場への流入圧力をさらに高めるという地政学的な挟撃も受けている。
英国新車市場におけるシェア変遷:国内生産 vs 輸入車 (2023-2026予測)
効率とコストが市場を支配する中、一度「安くて良い」選択肢を知ってしまった消費者を、伝統的なブランド価値だけで呼び戻すことは可能なのか——工場のラインが再び動き出した今、その轟音は復活の狼煙なのか、それとも過ぎ去った時代への鎮魂歌なのか、厳ビアな問いが突きつけられている。

ブレグジット後の孤独:欧州サプライチェーンとの乖離
ドーバー海峡を挟んだ目に見えない「国境」は、2026年の今もなお、英国の自動車産業にとって物理的な海峡以上に深く、重い分断線として存在している。2025年の生産台数が歴史的な低水準に沈んだ要因として、多くのメディアはEV生産ラインへの転換に伴う一時的な稼働停止を強調した。しかし、工場の再稼働が進む現在、現場から聞こえてくるのは、設備投資の完了による安堵ではなく、EU離脱(ブレグジット)がもたらした構造的な「孤独」に対する悲鳴である。
英国とEUの間で結ばれた通商協力協定(TCA)に基づく「原産地規則」は、2026年現在、より複雑な方程式を突きつけている。完成車の輸出に関税ゼロの特恵待遇を受けるためには、部品の一定割合を英国内またはEU域内で調達する必要があるが、バッテリー供給網の構築が遅れている英国にとって、これは事実上の「足かせ」となっている。
サンダーランド近郊の日系サプライヤーで物流管理を担当する (仮名) 山本博史 氏は、かつて秒単位で機能していた「ジャスト・イン・タイム」方式が、今や過去の遺物になりつつあると語る。「以前であれば、大陸からの部品はノーチェックでラインに届いていました。今は通関書類の不備一つでトレーラーが港で数日間足止めされます。在庫を極限まで削ることで競争力を維持してきた我々にとって、この『数日』は致命的です」。山本氏の証言は、単なる事務負担の増加ではなく、英国が欧州の広域サプライチェーンから静かに、しかし確実に切り離されつつある現実を映し出している。
日本の自動車産業への「他山の石」
英国が経験した「製造業の空白」は、ハイブリッド車(HV)という強力な現実解を持つ日本メーカーにとって、対岸の火事ではない。むしろ、それはEVシフトという巨大な構造転換期における「予後」の難しさを示す、極めて冷徹な先行事例として映る。
2025年の英国自動車生産台数が第2次世界大戦後の1950年代水準まで落ち込んだ事実は、統計上の衝撃以上に、産業構造の脆弱性を露呈した。既存のエンジン車(ICE)ラインを停止し、EV専用ラインへと刷新する「改修期間」が想定以上に長引いたことで、Tier 2、Tier 3の下請け網が持ちこたえられず、サプライチェーンの一部が不可逆的に欠損したのである。これは、「系列」という強固な、しかし硬直的なサプライチェーン構造を持つ日本の自動車産業が最も恐れるべきシナリオだ。
経済産業省の直近の分析や民間シンクタンクの予測を総合すると、日本の自動車メーカーが採ってきた「全方位戦略(マルチパスウェイ)」の正当性が、皮肉にも英国の苦境によって裏付けられた形となる。エンジン、HV、EV、水素と多様な選択肢を残しながら、工場の稼働率を維持し、雇用とサプライチェーンを守る。この「漸進的移行」こそが、急激な変化による産業死を防ぐ防波堤となってきた。
しかし、ここには「茹でガエル」のリスクも潜む。英国の生産減は意図的な「外科手術」による一時的な出血であり、2026年後半以降、最新鋭のEV専用工場として再生した拠点がフル稼働すれば、生産効率とコスト競争力で旧来型工場を圧倒する可能性がある。英国の事例は、変革の痛みを避けること自体が、最大の長期的リスクになり得ることを静かに警告している。