[深層] チャゴス返還合意の凍結:トランプ政権が突きつける「同盟のコスト」と日本の覚悟
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ロンドンの官庁街、ホワイトホールに激震が走ったのは、2026年の年明け早々のことであった。英国外務省が数年にわたり緻密に積み上げてきたチャゴス諸島(英領インド洋地域)のモーリシャスへの返還合意は、ホワイトハウスからの「拒絶」という冷徹な通告によって、その存続が危ぶまれる事態へと陥った。
「これは単なる方針転換ではない。同盟国に対する『踏み絵』だ」。
長年、英米関係の調整にあたってきたアーサー・ウィリアムズ氏(元外務省高官・仮名)は、シティの会員制クラブで深いため息をついた。彼が指摘するのは、2025年時点ではトランプ政権下であっても、国務省レベルでは「既存の合意を尊重する」というシグナルが送られていた事実である。当時、米側はディエゴ・ガルシア基地の長期租借権が確保される限りにおいて、主権の移譲自体には反対しない姿勢を見せていた。しかし、2026年に入り、トランプ大統領はこの合意を「弱腰(Weak)」であり「史上最悪の愚行」と公然と批判し、外交のちゃぶ台を返したのである。
この急激な「変心」の背景には、対中戦略の先鋭化がある。英議会では、スターマー政権(労働党)に対し、保守党強硬派から「米国の信頼を失った外交的失態」との追及が強まっているが、事の本質は英国の外交手腕の是非ではない。ワシントンの論理が、「国際法上の正当性」から「純粋な物理的支配」へと完全にシフトしたことにある。

「島」は誰の資産か:グリーンランド買収構想との不気味な符合
かつて世界が一笑に付した「グリーンランド買収構想」は、決して単なる突飛な思いつきではなかった。2026年の今、トランプ政権がインド洋の要衝、ディエゴ・ガルシア島(チャゴス諸島)の返還合意を覆そうとする動きを見れば、そこに貫かれた冷徹な一貫性が浮かび上がる。不動産王として名を馳せたドナルド・トランプ大統領にとって、領土とは歴史や文化、あるいは主権の問題ではなく、貸借対照表(B/S)に記載されるべき「資産」に他ならないのである。
2019年8月、当時のトランプ大統領がデンマーク領グリーンランドの購入に関心を示した際、多くの外交専門家はこれを外交儀礼を欠いたジョークとして処理した。しかし、ワシントンのシンクタンクで米国の安全保障政策を分析する田中健一氏(仮名)は、その見方を「危険な過小評価」であったと振り返る。「トランプ氏にとって、グリーンランドは豊富な資源と北極圏の制海権という『キャッシュフロー』を生む優良物件でした。同様に、ディエゴ・ガルシア島は中東と中国を睨む『不沈空母』という、代替不可能な不動産なのです」。
バイデン前政権が英国およびモーリシャスと進めたチャゴス諸島の返還交渉は、国際司法裁判所(ICJ)の勧告に従い、「法の支配」と「脱植民地化」という国際社会の規範を優先したものだった。しかし、トランプ政権のロジックにおいて、国際法という「ソフトウェア」の整合性は、基地という「ハードウェア」の物理的価値の前では無力に等しい。彼らにとって前政権の合意は、自国の資産価値を毀損する「悪手(Bad Deal)」であり、経営権の放棄に映るのだ。
この「領土=資産」という視点は、同盟国に対する認識の根本的な変質を示唆している。かつて日米同盟を支えていたのは「民主主義や法の支配」といった共通の価値観であったが、トランプ 2.0 時代において、それらは契約書の添付資料程度に過ぎないのかもしれない。
大手商社で地政学リスクを担当する山本博史氏(仮名)は、この変化を企業のM&Aになぞらえて警告する。「トランプ氏は、同盟国を『パートナー』ではなく、米軍というセキュリティ・サービスを利用する『テナント』として見ています。ディエゴ・ガルシア島での方針転換は、テナント料(駐留経費や貿易黒字)が見合わなければ、オーナー権限でいつでも契約内容を変更、あるいは破棄できるというメッセージです」。
インド太平洋の「不沈空母」:対中戦略における絶対的価値
インド太平洋の西端に位置するディエゴ・ガルシア島は、単なる軍事拠点ではない。広大なインド洋の「中心点」として、中東、アフリカ、そして南シナ海を繋ぐ地政学的な要衝であり、米軍にとってはB-52爆撃機や原子力潜水艦が即応可能な「不沈空母」としての絶対的価値を保持している。トランプ政権が、前政権下で進められた英国によるチャゴス諸島のモーリシャスへの主権譲渡合意に対し、事実上の「拒否権」を発動したのは、同島が対中抑止戦略において代替不可能な「物理的資産」であるという冷徹な計算に基づいている。
米共和党タカ派や安全保障の専門家の間では、モーリシャスへの返還が「中国による静かなる侵食」を招くという懸念が支配的だ。モーリシャスは中国から多額のインフラ投資を受けており、主権が移譲されれば、ディエゴ・ガルシア島の至近距離に中国の通信傍受施設(SIGINT)や寄港拠点が設置されるリスクがある。トランプ大統領の側近は、これを「米国の安全保障を第三国の善意に委ねる致命的な失策」と断じている。
主要要衝への距離(ディエゴ・ガルシア島起点) - 米国防総省公開資料より推計
この「実利至上主義」の矛先は、当然ながら日本の安全保障政策にも向けられる。防衛省関係者である山本裕一氏(仮名)は、「ディエゴ・ガルシアで見せられた『合意の破棄』は、対岸の火事ではない。トランプ政権にとって、沖縄の基地問題や日米地位協定の維持は、法的義務ではなく『コスト対効果』の取引対象になっている」と指摘する。日本が防衛費のGDP比2%達成を掲げ、防衛力を強化している現状でさえ、トランプ政権は「米国のプレゼンスがもたらす直接的な経済的見返り」を執拗に求めてくる可能性がある。
スターマー政権の苦悩と「特別な関係」の限界
キア・スターマー首相率いる英国労働党政権が、外交の柱として掲げてきた「ルールに基づく国際秩序への回帰」が、就任2年目を迎えたトランプ政権の「取引型リアルポリティクス」という巨大な壁に突き当たっている。その象徴が、インド洋の英領インド洋地域(チャゴス諸島)の主権をモーリシャスに返還するという合意の事実上の凍結だ。
英国内の外交専門家の間では、この「チャゴス問題」は単なる領土紛争ではなく、トランプ復帰後の「特別な関係(Special Relationship)」の本質を露呈させた事件として受け止められている。ロンドンを拠点とする安全保障コンサルタントの分析によれば、スターマー政権は米国との防衛協力を維持しつつ、国際社会での法的クリーンさを追求しようとしたが、トランプ政権は「法的正当性は戦略的有用性に優先しない」という明確なメッセージを突きつけた。

英国における外交優先順位の意識推移(出典:2026年欧州戦略研究所)
沖縄、そして尖閣へ:日本が見るべき「取引」の影
チャゴス諸島返還合意の事実上の撤回は、遠くインド洋の出来事として片付けるには、日本にとってあまりに重い教訓を含んでいる。トランプ政権がディエゴ・ガルシア島の「軍事的有用性」を理由に、同盟国である英国と国際司法裁判所(ICJ)が認めた法的な正義を切り捨てたことは、ワシントンの優先順位が「法の支配」から「物理的拠点の維持」へと完全に移行したことを物語っている。
米戦略国際問題研究所(CSIS)の最近の報告書は、トランプ政権が同盟関係を「共有された価値観」ではなく「損益計算書」で評価していると指摘する。この視点に立てば、在日米軍基地は東アジアの安定という公共財ではなく、日本が米国の軍事力を「レンタル」するための対価を支払うべき対象へと変質する。特に、辺野古移設問題を抱える沖縄において、この「取引型外交」は深刻な歪みを生むリスクがある。
日米駐留経費負担(思いやり予算)の推移と予測(出典:財務省資料及びCSIS予測)
さらに深刻なのは、尖閣諸島を巡る「有用性」の議論だ。バイデン前政権までは、日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用されることが「法的義務」として再三確認されてきた。しかし、トランプ大統領のディエゴ・ガルシア島に関する「変心」は、大統領個人の判断が既存の合意を容易に上書きできることを証明した。もし北京とのディールにおいて、尖閣の防衛が「米国の経済的利益」に合致しないと判断されれば、条約の文言は一瞬にして形骸化する恐れがある。
2026年のリアリズム:法の支配から「力の均衡」への回帰
結局のところ、今回の騒動が突きつけた結論は、世界が「法の支配(Rule of Law)」という理想主義的な時代を終え、大国の「力の論理(Rule of Power)」が支配するリアリズムの時代へと回帰したということである。この新たなゲームボードの上では、過去の合意や法的な正当性は、物理的な強制力や経済的なレバレッジによって容易に覆される。日本がこの荒波を乗り越えるためには、米国に対して「法的な義務」を説くのではなく、日本というパートナーを失うことが米国にとって「致命的な損失」となるような、不可欠な戦略的価値――それは半導体供給網の要衝としての地位か、あるいは次世代通信規格6Gにおける技術的覇権の共有かもしれない――を提示し続けるほかない。